YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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二つの相反する事柄が、同時多発的に起こっている

 時代の粒度が変わったのです。今まで一つの事柄(事象)と思っていたのが、じつは二つの事柄(事象)が混じり合っていたということが、次々とあきらかになってきているのです。原因は何か。時代を観察する装置が変わったからでした。その結果、今まで観えていなかった事柄(事象)が、観えるようになったのです。その観えるようになった事柄(事象)はいままで観えていなかっただけの話で、もともと存在していた事柄(事象)でした。

 ここが大事なところです。もともとあった事柄(事象)が顕在化しただけなのです。10倍の倍率の顕微鏡で観ていた飲み水を100倍の倍率の顕微鏡で観てみたら、なにやらモゾモゾ動き回っている得体の知れない虫がいた。きれいと思っていた飲み水が、じつはきれいな飲み水ではなかった、というような話です。

 この問題は果てしのない議論になりかねないのです。一つには、100倍の倍率の顕微鏡で観ている人たちと、10倍の倍率の顕微鏡で観ている人たちとの間の争いになります。「そんなことがあるはずがない。事実をよく観てみろ」という、その事実が存在しているか、いないかの議論です。

 もう一つは、同じ100倍の倍率の顕微鏡で観ている人たちとの間の争いです。「もうこの水は、飲み水としては使えない。新しい飲み水を探そう」という、いわば改革派と、「いや、今まで飲み水として何の問題もなく使ってきたのだから、このままでいい」という、いわば守旧派と、「いや、飲み水は、飲み水として使っていこうよ、ただし煮沸するか、どうかして使っていけばいいんじゃないか」という、いわば中間派というように、事実がどんどん枝分かれしていく議論です。

 前者の議論は、宗教裁判にまで発展した歴史があります。この場合は、顕微鏡ではなく望遠鏡でしたが、天体を観ていたガリレオ・ガリレイが、「それでも地球は動いている」と言った天動説と地動説の議論でした。ガリレオは、当時のローマ法王と昵懇だったために火あぶりの刑は免れたが、ジョルダー・ブルーノは、異端の烙印を押されて西暦1600年に火あぶりの刑になりました。

 後者の議論は、時代が新しく変わるたびに、いつもおこる歴史です。「新奇なモノは何で排除する」という生き物としての人間の根源的な問題でもあります。この議論は、改革派と守旧派と中間派に枝分かれして、ときには戦争へと発展した歴史があります。たとえ話はこのくらいにして、「二つの相反する事柄が、同時多発的に起こっている」に戻ります。今、起こっている、二つに相反する事柄とは何か。

 例えば、1「人が余っている、人が足りない」。この場合は人材の価値観が、<人手>から<知識>に変わったことが原因といえます。2「倒産した会社、過去最高の利益を上げた会社」。この場合は、原因は、色々ありますが、過去にこだわった会社、未来にこだわった会社。もしくは、改革できなかった会社、改革できた会社などが原因といえます。3「老後を都会で暮らす人、田舎で暮らす人」。この場合は、ライフスタイルの考え方の違いを原因に挙げておきます。

 このように、時代が大きく変わろうとしているときには、二つの相反する事柄が、同時多発的に起こるのです。時代が飽和状態から過飽和状態へと煮詰まった結果、今まで液体だったモノが、突然、固体に変わってしまった。このような現象を相転移したと言います。見た目はまったく違うが、じつは同じ因果でできているモノである。形態が変わったにすぎない、という割り切り方もあります。

 また、モノゴトの摂理として「陰が窮すれば陽に転じ、陽が窮すれば陰に転じる」というタオの思想もあります。陰を背中にして陽を眺めれば、陰は見えにくくなります。陽を背中にして陰を眺めれば、陽が見えにくくなるのです。陰と陽を左右に置いて、モノゴトには陰と陽があるのだと割り切って、陰と陽と対峙していこう、という摂理でもあります。

 とにかく時代の粒度が変わったのです。時代を観察する装置が変わったのです。新しい価値観が、次々と顕れては消えていく時代です。せめて観測する装置を新しくする。ここから始めるのも、一つの割り切り方の方法です。

経営の目的と、その手段をあいまいにする経営者

 少し難しい話をします。企業の利益の源泉は、その企業の存在理由と一致していなければならない、というお話です。すべての企業組織は、その業種・業態に関係なく、モノを開発する部門と、モノを生産する部門と、モノを営業する部門と、それらの各部門の業務を支援(管理)する部門とで構成されているはずです。そして、すべての企業組織は、業務効率利益と基礎利益に合算される企業利益を生みだすはずです。

 業務効率利益とは、モノを生産する部門、モノを営業する部門、そして各部門の業務を支援(管理)する部門で発生するモノです。基礎利益とは、モノを開発する部門で発生するモノです。また、ここでいうモノとは、企業における有形・無形の成果物のことを意味します。ま、簡単に言ってしまえば「モノ=製品」と言えるのですが、「モノ=経営の目的」と定義するのが最も適切です。たとえば営業部門がなしえる売上利益は、本質的には、その企業の存在をなすものではなく、営業の業務効率アップの結果で生じる業務効率利益(決算期内に生じる実現利益)でしかないのです。

 しかし、今日、多くの企業では、この営業部門こそが企業の利益の源泉であると錯覚し、営業部門への評価が過大評価されがちです。本来、営業部門は、開発部門が技術開発するモノを消費者へ受け渡すための機能であり、消費者の満足のなんたるかを認知することはできても、開発できる部門ではないのです。営業部門に対する過大評価は、ときには消費者の満足を無視し、売上中心主義に走り、結果的に、消費者の不満足を発生させる原因となりえるのです。

 営業部門至上主義は、その企業の存続を是非する問題を発生させる危険性を含んでいるのです。金融・証券企業の不祥事が、そのひとつの実証事例です。「とにかく売ってしまえば、あとは野となれ、山となれ」です。企業における利益の源泉は、業務効率利益ではなく、基礎利益であるということを明確に認識しなければならないのです。

 また、企業の基礎利益は、企業の存在を成すモノであり、その存在を成すモノが、顧客の満足と一致していることが企業発展の基本なのです。突然、難しい話になったので整理してみます。

・企業の利益=業務効率利益+基礎利益(企業の利益の源泉)
・企業の利益の源泉=基礎利益=企業の存在理由企業の存在が実現している=顧客の満足が実現している
・企業が発展している状態=顧客の満足が継続している状態

という図式です。つまり、経営の目的は「企業の存続」であり、その手段が「企業の利益」なのです。しかし、「企業の利益」の中には、業務効率利益、つまり決算期内に達成できた実現利益、つまり売り上げ目標の達成と、基礎利益、つまり、企業の利益の源泉、つまり、お客様の満足が含まれているのです。

 経営の目的と、その手段をあいまいにする経営者は、「お客様の満足」が目的であるにもかかわらず、「売り上げ目標の達成」のためには、「お客様の満足の達成」に目をつぶってしまうのです。手段を目的化してしまうのです。古い例では、三菱自動車のリコール事件や雪印の品質管理事件。最近の例では、キャッシュカードの盗難事件に対する銀行の対応が挙げられます。バブル華やかなりし時代の銀行における押しつけ融資などは、その典型と言えます。

批判することの無責任さ。賛成することの勇気。

 批判することは簡単です。「問題がある」という殺し文句が使えるからです。私の顧問先の企業が新技術を開発して、大手企業に持ち込んだときの話です。その新技術の開発は、偶然にも大手企業でも最優先の開発課題としてプロジェクトチームが組まれていました。顧問先の企業が開発した新技術は、そのプロジェクトチームの責任者に評価されることになったのです。しかし、結果は、「いいものだと思いますが、問題もあると思います」という評価が下されたのです。大手企業のプロジェクトチームの責任者が、その新技術をいいものだと評価した瞬間に、「それじゃ、いままで我が社でやってきたことは何だったのだ」と言うトップの叱責を恐れたのでした。

 新技術を受け入れることは、プロジェクトチームの存在と、プロジェクトチームの責任者の能力が問われることを恐れたのでした。結果として、プロジェクトチームの責任者が使った手は「消極的な賛成」という手法でした。「前向きに検討します」という言葉に置き換えることができます。大企業病の典型的なパターンです。批判しないかわりに賛成もしない、という様子見です。先送りすることです。

 「第五世代マネージメント」の著者である、チャールズ・M・サベージは、次のように述べています。“企業の利潤に底穴を開ける真の元凶は、製品の仕掛品ではなく、いわば意思決定の仕掛品、すなわち意思の未決定である。企業の活力と熱気を蝕むものは、無知の細かい事柄についての中途半端な決定や決定なしの放置状態である。従って、意思決定の仕掛品は、喩え境界が不明確で情報がわずかしかない場合でも、決着をつけなければならない”

 意思決定が為されない、もしくは意思決定が曖昧に為されると、グローバル・ネットワーキングの時代では意思決定を必要としていたプロジェクトの進捗がストップしてしまいます。目の前に見えているスタッフ以外に、目の前に見えていないスタッフにかかっている人件費もどんどん浪費されます。

 賛成することには勇気が必要です。やり続けるという勇気です。かつてこの言葉は、松下電器の松下幸之助氏が、そしてサントリーの佐治敬三氏が「やってみなはれ」と言っていた言葉でした。関西弁特有の柔らかい言葉ですが、その裏には、「いったんやるといったら死ぬきでやりなはれ、簡単に音をあげることは許しまへんで」という、きつい言葉がついていたのでした。

知識について語ってみよう。

 「第五世代マネージメント」を著したチャールズ・M・サベージは、知識を5W1Hに分類し、以下のように定義しています。
(1)知識とは<Know How>であり、その仕事を効率よくするためには、どう処理していけばいいかを知ること。
(2)知識とは<Know What>であり、その仕事を効率よくするためには、何を用意して、何を参考にして、何を実行していけばいいかを知ること。
(3)知識とは<Know When>であり、その仕事を効率よくするためには、どのタイミングで、どのような手順ですればいいか。段取りをつけるタイミングを知ること。
(4)知識とは<Know Who>であり、その仕事を効率よくするためには、誰に頼めばいいか、誰に相談すればいいかを知ること。
(5)知識とは<Know Where>であり、その仕事を効率よくするためには、かつて、その仕事がどのようなカタチで、どこで発生したかを知ること。
(6)知識とは<Know Why>であり、その仕事を効率よくするためには、その仕事がなぜ発生したか、その背景や狙いを知ること。

 そして今日、チャールズ・M・サベージが定義した「知識の5W1H」は、さらに複雑化し、「知識の報酬や、知識の量」を規定するための定義が新たに必要になってきました。知識が社会の基軸価値となったのだから、当たり前と追えば当たり前のことです。以下に追加してみます。

(7)知識とは<How Much>として、その知識はいくらの価値を持つものか、その価値を定量化しなければならない。
(8)知識とは<How Many>として、その知識はどれくらいの量があるのか、その量を定量化しなければならない。
新しくつけ加えられた<How Much>と<How Many>が、じつは知識社会で働くうえにおいて、報酬を規定する目安になるのです。

 知識社会では、少なくとも“時間給”や“月給”という報酬制度はそぐわなくなりつつあります。例えば、Aさんは、Aさんに与えられた仕事を1時間で終えました。Bさんは、Bさんに与えられた仕事を10分で終えました。AさんとBさんは同一の仕事(時間給1,000円と決められた仕事)を与えられたにもかかわらず、Aさんは1時間、Bさんは10分で終えてしまったのでした。

 職種によって時間給が異なるのは当然なのですが、同一の職種において仕事を終えるスピードが異なり、なおかつ仕事の品質(出来具合)も異なるケースが発生するのです。知識社会では、仕事の報酬を従来の時間給で算出することが難しくなります。少なくとも知識は第三者に評価されるべきものであり、日々の業務のすべてを詳細に、正確に記述し、蓄積し、整理し、定量化し、価値基準値を明確にし、いつでも検索できるカタチ、つまり共有できるカタチにすることが不可欠になってきているのです。

 私の会計事務所と契約しているコンサルタントの話ですが、彼の仕事の速さは尋常ではありません。どのような仕事を依頼しても、たちまちのうちに仕上げてきます。普通の人が1週間はかかるだろうという仕事も、早ければ翌日、遅くても2、3日で持ってきます。

 その彼が、先日ぼやいていました。「仕事が速いと言うことは、必ずしもいいことばかりではない。むしろ時間をかけて仕上げたという印象を与えた方が有り難みがあるようで、高い評価得ることがある」とぼやいていました。知識を定量化する。知識を可視化する、可値化することは、これからの社会ではとても重要な課題になることは間違いありません。

 知識は目に見えるカタチとしての形式知、目に見えないカタチとしての暗黙知として区分されると同時に、“知識給”という新しい報酬制度の創設が不可欠になってきています。

知識は利用してはじめて顕在化する。

 発想の転換を大胆にしてみようと思います。人間が一生かかって獲得し得るすべての知識の量を、誰もが均等に、この世に生まれいでた時点で既に与えられていると仮定します。但し、この仮定には、一つだけ前提条件があります。この与えられているとする知識は、非常にヘソ曲がりであって、<すべての知識は与えられている>ということを、本人が自ら気づき、そのうえで、その知識を使うことによって、はじめて顕在化するという性質を持っていると仮定するのです。すべての知識を与えられているといっても、その知識を使うことなく、しまいこんだりすると顕在化しないとする前提条件です。

 もちろん、この仮説には反論があることは承知の上です。そんなことはない、人間にとって、知識とは<ゼロから獲得し得た総量>にほかならない。獲得し得る知識の総量を、人間であるなら誰もが初めから与えられているなんて、そんなバカなことは有り得ない、とする反論です。知識は、他人に負けないくらいの努力をして初めて勝ちとるものであり、人間は努力なしでは、知識を手にすることは不可能である。従って、真面目にコツコツと努力しなければならない、ときには犠牲をもいとわないという決心が必要である、という反論です。

 しかし、冒頭に述べたように、この項では発想の転換を大胆にしてみようと思います。人間が平均して80年以上の人生を生きていくうえで不可欠な、さまざまな知識は、そのすべてを生まれたときから誰もが同じだけ与えられているとします。ゼロから獲得していくとする知識を<所有した知識>とし、すべての知識は生まれながらにして既に与えられているが、利用しなければ顕在化しないという知識を<利用した知識>として、下記に図解してみます。

 つまり、この図でもわかるように、生まれながらにして与えられた知識を利用することによって顕在化させた知識も、努力して勝ちとった知識も、知識の量に違いはありません。知識は持っているだけでは、何の価値もありません。知識は使ってはじめて価値を生み出すものです。また、知識は、その知識を必要とする人が存在しなければ何の価値もありません。知識は必要とされてはじめて価値を生み出すものです。

 問題は、どちらの方がより多くの知識を手にできるか、ということです。知識は、ゼロから獲得していくものであるとする従来の常識による方法と、この世に生まれいでた時点ですべての知識を与えられてはいるが、利用しなければ顕在化しないとする仮説による方法と、いったい、どちらの方がより多くの知識を手にできるのでしょうか。知識はゼロから獲得していくという従来の手法は、初めはゼロなのだから自分以外のどこから探してこなくてはならない、獲得しなくてはならない。知識は有限であるという意識が芽生えます。知識を獲得する、所有するための『手段』を常に考え続けるという意識が潜在的に存在します。

 一方、知識は利用しなければ顕在化しないという仮説の手法は、知識は無限にあるという意識が芽生えます。但し、この知識は利用しなければ顕在化しないから、知識を使う、利用するための『目的』を常に考え続ける意識が潜在的に存在します。果たして、人間が知識を手にしていく経緯として、どちらの手法の方が、より多くの知識を手にできるのだろうか。

 前者の、知識は有限であると信じている人たちの間では“知識を有限だから、限りあるものだから、みんなで分かち合っていくと、そのうちに枯渇するのではないか”という猜疑心が芽生え始めます。限りあるものを分かち合うことは、初めの頃は、たくさんあるから少しぐらい減っても意に介さないでのですが、ある量を境に不安と不信が一気に押し寄せてきます。所有欲は際限がないのです。苦労して手に入れたものだからとして、知識は、囲い込まれて閉ざされてしまいがちになります。所有できた人と所有できなかった人が偏在し、往々にして争いごとに発展していく可能性が大きくなります。

 後者の、知識は無限であると信じている人たちの間では知識は無限にあるが、利用しなければ顕在化しないという前提があるために、“みんなで利用し合うことを考えよう”とし始めます。無限にあるものを独占しようとする人間はいません。但し、上手に利用できた人と、上手に利用できなかった人が偏在することはあります。しかしこの偏在は、上手に利用する方法を習得すればすぐに解消できる偏在です。後者の知識は、囲い込まれて閉ざされてしまうことはなく、むしろオープンなカタチで共有化すれば、より多くの知識を顕在化できるはずだ、と気づくことができるようになる可能性が大きくなっていきます。

知識をお互いに交換し合うことを学習という

 学習という言葉を見つめ直してみたいと思います。学習という行為は、本来、知識を顕在化させるエネルギーなのです。これは私の個人的な見解ですが、学習には<確認>するという行為と、<覚える>という行為があると思います。この二つの行為は一見すると同じように聞こえますが、じつは大きく異なります。

 <確認>するという行為は、自分が知識として既に持っているものを「そこにもあるよ」という具合に、相互に教えあうことなのです。コミュニケーションし合うことなのです。その結果は「あっ、そうか、気づかなかった。ありがとう」という言葉が飛び交うことなのです。従って<確認>は瞬時に理解できることであり、そのコミュニケーションの結果は、いつも相手に対して感謝の気持ちで終わることが多くなります。コミュニケーションの輪が広がりやすくなり、行動がオープンになると言えます。

 かたや<覚える>という行為は、自分が知識として持っていなかったものを教えて貰うことです。持っていなかったものを相手から貰う結果になります。ビジネス関係でいえば料金を払って購入する行為になります。この場合、お金を払わなければならないわけですから、教えて貰った相手に対して「料金を払っているのだから、ちゃんと教えろ」とか、ときには覚わらないのは「教え方が悪いからだ」という責任転化も起こりがちです。また、<覚える>は<確認>と違って瞬時に理解できない場合があり、時間も苦労もかかります。だから、一度覚えたことを他人に教えることがもったいなくなってしまうこともままあります。さらに、教えてしまうと、何となく失ってしまったような気がすることもままあります。そのコミュニケーションの結果は、相手に対しても、自分に対しても社交辞令的になりがちです。「ありがとう」とは言っても、心からの感謝ではなくコミュニケーションの輪は狭まっていくのである。クローズドになっていくケースが多く発生します。

 確認するということは、時間をかけて、苦労をして、覚える必要がまったくないということなのです。ここが重要です。確認だけをするのだから覚えるのに比べて、それこそ何十倍、何百倍も速くできる。確認していくのだから他人の話が素直に聴ける。聞かれれば、確認したことをすべて、つつみ隠さず話すことができます。確認しなければならないことは山ほどあるのですから、すでに確認したことなど大切にしまっておくほどのことではない、出し惜しみするほどのものではないという意識が満ちます。確認するのだから言い争うことがない。そういう意見もあるのだと納得してしまう。確認するのだから、確認できたら、確認させてくれた人に感謝の気持ちが持てるようになるのです。

 つまり、ここでいう確認とは知識を得ることと同じ結果であり、じつは、この確認するという行為が、気持ちが真のオープンマインドの意味するところなのです。オープンマインドとは、知識と知識のコミュニケーションに不可欠な条件であり、相手のすべての“現実”を受け入れる行為の連続といえます。“現実”とは、その人が認識している経験知(事実)の集まりなのです。マイワールドなのです。人間とのコミュニケーションによって相手の意見を受け入れるということは、相手のマイワールドである“現実”を受け入れることと同じことなのです。そして、この関係はコミュニケーションにおいて、お互いがお互いに永遠に与え続け合うという行為につながっていくのです。

人間には無限の実現力があるという。

 本当ならば、この“無限の実現力“という言葉は“無限の能力”と置き換えた方がわかりやすいと思うのですが、私は、あえて“能力”とは、願ったことを叶える“実現力”である、と定義します。理由は後述します。

 さて、知識に続いて、今度は“実現力”のお話ですが、このお話には「自信」と「確信」と「才能」という3つの言葉の認識が必要になってきます。「自信」とは、自らが、その存在に気づくことである。「自分には能力がある。望んだことは何でも実現できる」ということ気づくことは、自信に満ちることでもある。自信に満ちることは、他人の思惑はまったく無関係です。本人が自分自身で本人を評価できたかできないかだけの問題なのです。「やってみよう、できるに違いない」、と行動を起こすことなのです。たとえ挫折しても、自信が揺らがなければ、何度でもやり直すことができます。この繰り返しをやって、寂しい人生を送ってしまったという話は、いまだに聞いたことがありません。

 ちなみに広辞林では、「自信」とは“何かを成し遂げた結果における本人の評価である。他人の評価や意識は無関係なのである”。また、「確信」とは“何かを成し遂げた結果を、本人が自らを評価し、同時に他人からも評価されたときの結果としての、本人の意識である”。さらに、「才能」とは“何かを成し遂げた結果や、その結果の蓄積における他人の評価であり意識である。才能があると言われた本人の意識は無関係である”と、それぞれ定義されています。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、「人間には無限の実現力がある」とする根拠は、前の項でお話しした「知識は利用してはじめて顕在化する」という仮説と関係します。何かを実現するためには、何かを実現するための知識が必要になります。大切なことは気づくことです。そして決してあきらめないことです。人間には無限の実現力があると気づき、そして“願えば叶う”と信じ続け、願ったことを決してあきらめなければ、その願いは必ず叶います。

 これは必然です。但し、その願いが、いつ叶うかは悲しいことですが偶然なのです。自分が生きている間に叶うこともあれば、自分の後継者が次の世代で叶えてくれるかもしれません。そのためには、その願ったことをより具体的に記録として残しておくことが不可欠です。願った本人は、既にこの世にはいないが、願った本人が書き残しておいた記録が引き継がれていけば、いつの世代とは明言できませんが必ず実現します。

 人間が言葉を繰るようになり、そして文字を発明して歴史を残すことが可能となりました。歴史は記録によって創られていきます。前述した、人間は誰もが均等に、この世に生まれ出でた時点で既に与えられているという仮説を受け入れることです。そして何でも実現できる能力を持っている、と気づいたら、その知識のひとつひとつを確認していくことです。しかし、ここで大切なことは<確認>と<覚える>とはまったく違うことなのです。

まだ半分ある、もう半分しかない。

 所有しているものを分け与える、もしくは使っていく場合、往々にして、「もう半分しかない」という不安がよぎる分岐点というものがあるようです。この分岐点を境にして時間の速さが変わってしまうようです。それまでは、ゆったりとした気分でいたものが、無くなってしまったときの未来を想像し始めて、余裕が無くなってしまうのです。

 ですから所有には、たとえその時点で充分に所有していたとしても、たえず獲得する、増やすという行為が不可欠になるのです。ときには、獲得する、増やすという行為が争いごとに発展するケースが多々あります。

 人間と人間との争いのほとんどは、限られたものを分かち合う過程において発生しています。たくさんあるうちは、余裕に満ちた微笑みを交わし合うことができるが、残り少なくなると不安と恐れと猜疑心が微笑みを打ち消していく。しかし、前述したように、知識とは、人間が生まれたときから同じだけの量を持っているものであるとするなら、そこには奪い合うという行為は消えて、与え続ける、交換し合うという行為が永久に続くはずです。そうでない限り、いずれ、自分に能力があるかないか、それが実現できるかできないかで悩むことになります。まだ、やってもいないのに、すでにやったとして、やった後の結論を自分で出して悩むようになるのです。

 人間は望めば何でも実現できる能力を持っている、と気づくことができたか、できないかである。もし、気づくことができない場合は、やがて、自分に能力があるかないか、それが実現できるかできないかで悩むことになるのです。まだ、やってもいないのに、すでにやった後の結論を自分で出して悩むようになります。