YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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仕事ができる人。できない人。

 仕事ができる人と、できない人とでは、一体、どこに違いがあるのだろうか?一つには、自分に対しての自信である。つまり、自分がやっていることに対して確固たる自信が在れば、まわりの目や思惑を気にすることなく、ゴーイング・マイウェイを貫くことが可能になるのである。ゴーイング・マイウェイが貫けて、その結果がある程度の成果を挙げることができれば、他人の評価は、あの人は仕事ができると尾ひれが付いて、本人の自覚と意識と本音とは無関係に評価が一人歩きするようになる。そして、その評価が定まらないうちに、運よく、次のそこそこの評価を獲得することができれば、ま、当分は、“あいつは仕事ができる”という肩書きを手にすることは、まま可能である。そして、この繰り返しがある程度、回り出すと、ひとりでに自信が芽生えるものである。芽生えた自信は、肥料を怠ることなく、水をまきすぎることなく、時節の変動を見誤ることなく、自ら大切に育てるようにすれば、やがて、その自信はたくましく成長し、花を咲かせ、実を結び、種となって、次の自信を芽生えさせる“自信の種”として蓄積できるようになるのである。確固たる自信として凛として際だつようになるのである。一つの問題を残してではあるが・・・。

 さて、その一つの問題であるが、自信の一つの源であるゴーイング・マイウェイは、ときとして独断専行、傲慢身勝手、唯我独尊、トラブルメーカという評価と表裏一体の言葉として存在しがちであるというのも事実である。有り体に言えば、ゴーイング・トュゲザーがないという、きわめて日本的な言い回し方である。この日本的な言い回し方に対抗する方策がビジョンを明確にするということである。仕事ができる人は、自分に対して自信があるのと同時に、明確なビジョンを打ち出すことができるのである。明確なビジョンを打ち出すことができる人は、ゴーイング・マイウェイをやりながら、ゴーイングトュゲザーを実践できる人なのである。自分のまわりの人たちを上手に巻き込んで、あたかもお祭り的にワイワイ言いながら仕事をやり遂げてしまう力でもある。

 では、このビジョンとは、一体、何なんだろうか。答えは簡単なところにある。例えば、あるビジョンの描き方を仕事に置き換えて紐解いてみよう。ビジョンとは、実現すべき仕事のサクセスストーリーを明確にイメージし、そのサクセスストーリーのカタチをきわめて具体的に構築し、その在るべき姿から出発点までを逆算して、なおかつ、実際の行動を、出発点から構築すべきサクセスストーリーへと、一歩一歩着実に歩む始めることである。確信して行動を起こすことである。言い回しが難しくなったようであるが、簡単に言えば、自分がその仕事を行うにあたって、成功したカタチを自分以外の人たちにも納得してもらえるだけの熱意を発散し続けることができるか、できないかだけのことである。発散し続けるということは、ビジョンを説明し続けることでもある。こうしてこうしてこうすれば、ああなってああなる。ああなってああならなければ、こうしてこうすればいい。自分のビジョンを、自分以外の人たちに理解して協賛してもらえるまでには、説明を十分にしなければならないし、具体的な手順もあきらかにしなければならない。ときには、損益計算を最悪の場合と最善の場合の両方で試算してみなければならない。それこそ何回も何回も、同じことを丹念に、粘り強く、繰り返し繰り返し積み重ねていくことが必要である。

 ビジョンを描くことは、実現すべきサクセスストーリーのシミュレーションを、無意識のうちに自分自身に対して、そして自分以外のビジネスパートナーたる人たちに対して、十分すぎるほど行うことでもある。仕事ができる人は、このことを意識して行っている人でもあり、無意識のうちに行っている人でもある。そして、さらに重要なことは。仕事ができる人は、自信を持って、ビジョンを具体的に描いて、まわりの人たちを説得し、納得させて、実現したサクセスストーリーのプロセスを綿密に記述して、秘密のファイルとして、自信を失いかけたとき、ビジョンが壊れそうになったとき、人知れず、あたかもバイブルのように確認し続けているのである。このようなケースの時は、あの時このようにしてに乗り切ることができた。あのときうまくいったことは、あのときにあのようにしたからだ、というように、自分がやったことは子細漏らさず網羅しているのである。網羅することを頭に記憶しておくか、おかないか。または、紙に書き留めておくか、おかないかは、人それぞれで、それぞれの主義主張の在りようであり、ここでは不問としたい。

 しかし、一つだけははっきりしていることがある。前述の“網羅”を頭に記憶している、仕事ができる人は、後継者を育てることが至難な技となることは間違いない。自分の頭を割って覗かせるわけにはいかないのである。従って、自分の後継者を自ら厳選し、その厳選した人物をいわば特別扱いして集中的に教えこむしかない。この手法は、得てして血縁関係を基本として存在し、後継者選定の目利きが違ったら取り返しがつかないうえに、2代目までは何とかなるが、3代目となるとうまくいったという話をとんと聞いたことがない。さて、“網羅”を紙に書き留めておくという、仕事ができる人はどうだろうか。この場合の後継者を育てる手法はシンプルである。後継者を事前に選定する必要がないのである。すべての人に後継者たる資格を公開するのである。

 “自信の種”を手にする方法を公開するのである。ビジョンの描き方を公開するのである。すべての人に自分が行ってきた手法を公開し、その手法をもっともうまくやりこなしたと認められる人を後継者とするのである。さて、今回も、筆がすべりすぎて、紙面も残り少なくなってきたようだ。ここにきて、仕事ができる人とは、頭が良い悪いとは無関係なんですかという素朴な疑問が飛んできそうである。その答えは明確である。頭が良い悪いは、確かに仕事ができるできないの尺度に大いに関係することは間違いがない。但し、その尺度を確かめるすべが定かではない。例えばリトマス試験紙みたいなものがあって、赤色に変わったら頭が良い、青色に変わったら頭が悪いとかいうように割り切れる話ではない。

 割り切れない話は、そこそこにしておくのが疲れないことでもある。人間は誰でも自信が確固たるもととして凛とすれば、仕事ができるようになるのである。人間は誰でも、ビジョンを描きそのビジョンを実現するための毎日をコツコツやり続けることができれば、仕事ができるようになるのである。決して両親から授かった我が身の頭の中身を、夢おろそかに扱うものではない。仕事ができる人は、自分が仕事ができるとか、できないとかいった迷いごとに頭を惑わせてはない。使ってはいない。私はこれがやりたい、と力強く宣言することができる人。その人を仕事ができる人というのである。いや、これからは、そのような人たちを“仕事ができる人”と呼ぶようにしよう、と提案したいものである。

以上

事実は不快。

 今回は、<事実>という言葉をむやみに使うと、手ひどいしっぺ返しを受けることがあります、というお話です。言うまでもなく、<事実>という言葉は、当事者同士が、ある真実を相互に認識するために不可欠な言葉です。しかし、この言葉は心して使わないと、当事者同士が相互に認識し合うことはできても、認識し合った事実と引き替えに、当事者同士を不仲な関係におとしめてしまう、危険きわまりない言葉でもあるのです。

 その典型的な<事実>のやりとりをあげてみましょう。よく経営者のみなさまが、社員に向かって「もっと事実をよく見ろ」とか、「事実から逃げずに、事実を直視しろ」とか言われている光景を目にします。このとき、経営者のみなさまが社員に言うときの<事実>は、どちらかといえば『快』に属する側から見ている<事実>なのです。正論という言葉で置き換えることも可能なのですが、まるで鬼の首でも取ったかのような勢いがあります。逆に言われている社員にとっては『不快』に属する側から見させられている<事実>なのです。「冗談じゃないよ、そんなことは言われなくてもわかっているよ」と、プイとふくれ面の一つも返してしまう。これはこれでの勢いがあるのですが、この勢いは負の勢いで、ヤル気をそいでしまう勢いなのです。

 事実を把握することは、とても大切なことなのですが、同時にとても困ったことでもあるのです。<事実>とは、本来、あからさまなものなのです。だからこそ、<事実>はどこまでいっても無機質でなければならないのです。中立でなくてはならないのです。<事実>にある種の色(例えば、意味と目的とか)を付けると、その瞬間、その事実は事実ではなくなり、まったく異なるものとして、秘められた意図と仕組まれた作為が混在する<情報>として存在するようになるのです。少し話が小難しくなってしまったので、簡単なたとえ話で易しくしてみます。

 最近話題の、ストックオプションという仕組みを、今回の<事実>の話にあてはめてみると、俄然、易しくなるのです。わかりやすくなるのです。ご存じのように、ストックオプションとは、自社株の購入を一種の高額報酬として権利化することです。額面5万円の自社株を、例えば6万円でn株購入できる権利を、社員に報酬の一部として供与します。社員はこの権利を、例えば7年間留保できるとします。その間にその株が、倍の12万円に値上がりしたとします。すると、6万円でn株購入できる権利を有した社員は、市場価格が12万円にもかかわらず、6万円で自社株を購入できて株式市場で売ることができるのです。この場合、首尾よく売り抜けることができれば、1株あたり6万円の利益を手にすることができるわけです。これが、いまホットな話題であるストックオプションの大雑把な仕組みです。

 ここまでは、何の問題もありません。言い方が露骨ですが、優秀な社員を会社に縛り付けておく手としては、きわめて合理的で、しかも従来の年功を基準とした賃金システムを変えることなく、革新的な能力給としての導入をいち早く具現化できる手なのです。問題は、この瞬間に発生します。自社株の購入権をストックオプションとして権利化したのはいいのですが、果たして手にした自社株が、最長7年後に、高額な報酬として実現するか、しないかは、ひとえに自社の業績次第であることは間違いありません。当然のように、ストックオプションを手にした社員はしゃにむに売り上げを伸ばし、利益を上げ、業績を上げることを、経営者然のように行うはずです。そして、当然のように、その社員が役職の有る無しにかかわらず、経営者自身が知り得るレベルでの、自社の経理内容や、財務内容や、経営内容の<事実>のすべてを『知ること』を要求するはずです。

 ストックオプション制度を導入した経営者は、ストックオプションの権利を手にした社員に対しては、要求されるがままに自社のすべての<事実>をあからさまにしなくてはならない義務が発生するのです。しかも、その<事実>には少しの色も付けることは許されないのです。しかし、現実は、往々にして、この<事実>には、ある種の色、例えば意味と目的が付加されがちなのです。意味とは、事実が事実としてあからさまになることを防ぐことであり、目的とは、真の事実を、虚の事実として、もう一つの事実として新たに存在させる・・・。有り体に言えば粉飾の類です。この場合、<事実>はもはや存在していないのです。<事実>は<情報>として名前を変えて、別なものとして存在するようになるのです。多くの場合、このような<事実>と<情報>の違いはまったく問題にされることなく、『<事実>を言っているじゃないか』と乱暴に放り出されて認識させられているのです。自社の経理内容や、財務内容や、経営内容のすべての<事実>をあからさまにすることは、ストックオプションを手にした社員にとっては『快』の事実であっても、ストックオプションを供与した経営者にとっては『不快』の事実でしかないからです。

 また、この<事実>は、経営者のみなさまには、さらに耳が痛いこととして、経営の根幹とも言える<出金の事実>と<入金の事実>の把握にもあてはまります。言うならば、入金とは、たった今の現時点から、未来のある一定の時限までにおいて発生する予定の不確定な<事実>です。一方、出金は、ある一定の過去の時限から、たった今の現時点までに発生し終えた確定の<事実>です。出金の事実が、正確に、しかも瞬間、瞬間に、把握できる経営システムが確立していれば、入金が出金を上回っている事実は、即『儲かっている』であり、下回っている事実は、即『儲かっていない』事実であり、その対応が迅速に、効果的に処置できるはずです。しかし、この場合も往々にして、入金の事実は別にして、出金事実をあからさまにすることは経営者にとっては『不快』な事実なのです。出金の事実があからさまにならずして、入金の事実(経営革新、リストラ、事業見直し、情報化・・・etc)がどうのこうのなど、何の意味があるのだろうか・・・。

 とはいえ、こうやって、今回のビジネスマインドの記事を記述している、この事実そのものが、じつは『快』と『不快』の相反する2つの事実を乱暴にまき散らしている・・・。事実の追求は、事実そのものは、もともとが不快なものであると自覚してからにしたほうがいいですよ、というお話が、今回のお話でした。

以上

“品” のいい人、“質” のいい人。

 今年は、“品”のいい人になろう。“質”のいい人になろう、をテーマにいきたいものである。というわけで、“品質”の話を始めようと思うわけですが、この品質という言葉はもともと2つの事柄をあらわしていた言葉だったのではないだろうか。例えば、“品”は品物の品をあらわし“質”は物質の質をあらわしていた。要するに品質とは従来物の“品”と物の“質”をあらわしていた言葉を、あるときから一つの言葉として使いだしたのだ、と。

 不思議なことに、“品質”という言葉を2つの言葉に割ってみると、俄然品質の意味が明確になってくるから面白い。物品の“品”は、物(モノ)としての品(ひん)をあらわす意味であり、物質の“質”は、物(モノ)としての質(かた)をあらわす意味だった、と。当然のように、品(ひん)は目に見えにくいモノである。目に見えにくいモノは量ることが難しいのだから、昔から高低であらわすモノと相場は決まっている。

 品が高いとか、品が低いとか質(かた)は目に見えるモノだからハッキリしている。見た目で良し悪しを量ることができる。ときには二つを左右に置いて見比べることもできる代物(しろもの)なのである。以上の事柄を下記のように図で表すともっとよくわかるようになるから不思議である。とにかく品質の話は奥が深いから疲れる。

 そこで、品質の話を図にしてみた。図にしてみると品質にはいろいろな品質があるのが一目瞭然となる。品質として最高なのが<◎>である。反対に最悪なのが<●>である。<△>と<▲>は、<◎>か、<●>か、どちらかわからないが、どちらかへの途上にあるといえる。さて、ここで話はいっきに冒頭のテーマに戻ろう。人間にとっての品とか、質とかはいったい何なのだろうか・・・。ハッキリしていることは、品は見えにくいモノで、量ることが難しい。質は見えるモノで、量ることができるということである。品(ひん)は品(しな)とも読むことができる。質(しつ)は質(かた)とも読むことができるというのが、一つのヒントになるようだ。

 例えば、ある場所である人がある所に立っていたとする。もし、その人が何も喋らずにジッとしていれば、その人の品や質を判断する手段は、見た目の質で判断するしかない。服装を見て、顔つきを見て、ヘアースタイルを見て、と言う具合に外観を評価するしかない。何も喋らずにジッとしている人を、見た目の質で判断できるのはこのぐらいまでであろう。次に人が歩き始めたらどうだろうか歩き方を見る。セカセカ歩いているか。ユッタリ歩いているか。

 では、そのある人が何かを喋ったらどうだろうか。喋り方を聞くのが常道である。同時に喋っている内容も聞く。声が大きいか小さいか、言葉遣いが丁寧か乱暴か。そしてどんなことを喋っているのか・・・。漂ってくるのである。何も喋らない、ただジッとしているだけから、何か動き始めたり、何か喋り始めると、漂ってくるのである。この漂ってくるものが品といえば品なのである。難儀なことである。

 これからの時代では、好むと好まざるにかかわらず、この漂ってくる品が人間と人間とのコミュニケーションにおいて不可欠な要素になろうとしているのである。理由は簡単である。インターネットを始めるとする通信ネットワークの進歩である。いまや、私たちは、相手に一度も会うことなく、音声と映像のみでコミュニケーションをとろうとする時代に足を踏み込もうとしているのである。身近なところでは、携帯電話などでは一度も会ったことがない人間とトーク交換しているという現象も珍しくはない。とくに、これからのビジネス社会では、この目に見えにくい“品”の勝負を前提としなければならなくなるという自覚が必要になってくるのである。

 新しいことを覚えるときには、とにもかくにも練習が第一である。まず、きちんと喋るようにしよう。喋ったら、なるべくその通りに実行するようにしよう。相手を傷つける言葉はもちろん、不快にする言葉もなるべく使わないようにしよう。周りを不愉快にする喋りもできれば少なくするようにしよう。映像で映し出されたあなたの姿も品を漂わせる大切な要素です。これも練習第一。きちんとしよう。人の目があるところでは緊張感を持とう。女優がいつまでもきれいなのは見られている快感に身を弾ませているからです。

 最後になりましたが、品が高くなると質が見えやすくなるのです。質が見えやすくなると質は黙っていても良くなるチャンスが増えてくるのです。自分の姿(かた)を映す鏡と、自分の心(ひん)を写す鏡の両方を持つようにする。それが“品”のいい人、“質”のいい人になるコツかもしれません。

器の人、中身の人。

 言うまでもなく、人間なら誰でも、この器と中身の二つは、兼ね備えているものなのです。但し、兼ね備えているからといって、その兼ね備え方のバランスがとれているかというと、これはまったく別問題になります。①器は大きいのだが、中身がどうも。②中身はあるのだが、器の大きさがどうも。③器の大きさも、中身も申し分ない。④器の大きさも、中身もどうも具合が悪い。というように、ま、大きく分けて、4種類ぐらいまでには分類できるのですが、何しろバランスが難しい。

 さて、前口上はこのぐらいにして、今回、この器と中身について述べてみたいと思った理由は、今、どの企業でも避けて通れない頭の痛い問題として、リストラや、事業計画の見直しや、新規事業の立ち上げなどといった、さまざまな決断をせざるを得ない状況の時に、結局、最後になって頭を悩ます事柄は「人材の取捨選択」になると思うからです。有り体に言えば、誰を配置転換させるか、誰に出向してもらうか、そしてさらには、誰に辞めてもらうか、といった類の決断です。

 もちろん、かつての日本の多くの経営者が見せたように、「たとえ他社はどうあれ、我社は一人たりとも従業員を解雇することなく、この難局を乗り切ってみせると」いった気概ある経営者の登場を期待したいが、どうやら今度ばかりは、その期待もかなわず、「やむなし」という断腸の思いのもとに「人材の取捨選択」が行われつつあるというのが現実のようです。そこで、冒頭の、器と中身の問題に戻るわけです。誰に泣いてもらうかという決断の物差しといってもいいでしょう。そして、このとき、往々にして行われるのが「好き嫌い」の感情を軸としたリストラです。「好き嫌い」の感情を軸としたリストラが行われた場合、多くの場合、残って欲しい社員からいち早く辞めていってしまう状況が発生しがちです。

 リストラの問題は、まず、経営者自身のリストラから始めなくては具合が悪いはずです。そこで、まず見極めです。経営者自身のリストラの場合は、事業そのもののリストラと密接に関わってくるはずです。事業の器と中身の問題です。この場合、器と中身の定義を人間から事業に置換しなくてはなりません。器とは、その事業のビジョンの大きさであり、確かさであり、新しさです。中身とは、そのビジョンを具現化する商品、もしくはサービスと置換すればいいのです。

 そこで、冒頭の①から④までにあてはめてみます。①器(ビジョン)は大きいのだが、中身(商品)がどうも。②中身(商品)はあるのだが、器(ビジョン)の大きさがどうも。③器(ビジョン)の大きさも、中身(商品)も申し分ない。④器(ビジョン)の大きさも、中身(商品)もどうも具合が悪い。当然のことですが、③の場合は、おそらくリストラとは無縁のはずですから、この場合は対象外とします。また、④の場合も、リストラ以前の問題で、事業そのものが存続しない状態のはずですから、同じく対象外とします。

 次に、経営者自身の器と中身を自分で分析して、現在の事業の器と中身に重ね合わせて比較してみます。①器(ビジョン)は大きいのだが、中身(商品)がどうも。の場合:必要とされる経営者は、器の人より、中身の人です。商品の品揃えを着実に増やしたり、サービスの充実や拡充を、率先して実行できる人が適任のはずです。②中身(商品)はあるのだが、器(ビジョン)の大きさがどうも。の場合:必要とされる経営者は、中身の人より、器の人です。次々に計画を立案して、とにもかくにも、それらの計画を力業で実行させてしまう人が適任のはずです。

 経営者自身のリストラが終わったら、いよいよ社員のリストラの見極めです。役職の上の方から、必要とされる経営者の器と中身の対角にある社員を、必要不可欠な人材と定義づける方法があります。例えば、必要とされる経営者が①なら、その経営者の補佐役は、②の人です。その経営者の補佐役が②なら、その補佐役は①の人です。そして、その経営者の補佐役の補佐役が①なら、その補佐役は②の人・・・・、というように、順番に、見極めていく方法があります。とはいっても、人間の一人一人を、そんなに都合よく見極めていけるはずがない、というのも事実です。それに第一、器とか中身とか、わけのわからない物差しなんか使わなくても、「うちの会社にとって、どの社員が必要か必要でないかは、普段、社員の仕事ぶりをよく見ていれば、自ずからわかるものだ」という意見も、もっともです。

 そこで、またまた冒頭の、「人間なら誰でも、器と中身の二つを兼ね備えているもの」、に戻ってみます。但し、今度は、人間を社員、器と中身を、仕事の段取りと、仕事の手際という言葉に置き換えてみます。つまり、社員として器が大きいと言われている人を段取りのいい人。社員として中身がある人と言われている人を手際がいい人と置き換えてみるのです。もちろん、この場合も大切なのは、バランスよく兼ね備えていることです。

 さて、例えば、経営者がビジョンを先行させたとき、そのビジョンを実行すべき社員の器と中身のバランスはどうなるのでしょうか・・・。ここが重要なポイントです。間違いなく、器の社員より、中身の社員を見極めるべきです。なぜなら、時代が不透明な時代には、手際に自信がない人間は段取りを多く言うようになるからです。スケジュールの確認ばかり言うようになると言ってもいいのです。それはできる。それはできない、ああしよう、こうしようという具合です。客観的にそのような状態を見てみると、愚痴や泣きごとばかり言っているという状態です。

 一方、手際に自信がある人は経営者のビジョンに間に合わせることを優先します。やってみますよ。ま、何とかしてみましょう、の言葉が先行して、段取りは最小限の確認ぐらいにとどめておきがちです。事実、社員が段取りのことばかり言及するようになると、経営は地に足が着きにくくなるものです。ビジョンの実現に不可欠な商品やサービスを手際よくコツコツとカタチにしていく社員こそが不可欠な社員ではないでしょうか。そして、往々にして、そのような社員は、変わり者とか、偏屈とか、地味なヤツとか言われているのが常です。

 今回は、少し偏見が強すぎる嫌いがありますが、今のような時代にこそ、経営者がビジョンを明確にして、そのビジョンを先行できないようでは、経営は、ますます逼塞していくのは目に見えています。そのとき必要不可欠な社員は、コツコツと着実に仕事をこなしていく社員です。そのような社員は、じつは、真っ先にリストラの憂き目にあっているというもの事実です。理由は、リストラの対象社員を選別する管理職にとって、そのような人間が一番扱いにくいと考えているからです。つまり好き嫌いで言うと、好きでないタイプなのです。往々にして、管理職は部下の支援業務を行う役職であると自覚していない管理職ほど、一に段取り、二に段取り、三、四がなくて段取り、という具合に、中身がない仕事を延々とやっているきらいがあると言えばあるのです。そして、そのような管理職が、多くの場合、社員のリストラの選別を任されているというのも事実のようです。

今みたいな時代を、カオスとか、複雑系とか言うらしい。

 カオスというのは、わけがわからない混沌としたこと。複雑系というのは、ひと筋縄ではいかないややこしいこと。簡単に説明するならば二言三言で終わってしまうものではあるが、実はこの言葉が飛び交うようになると、世も末とかいって大変なことになるらしい。まさに我が国の現状そのものを示唆している言葉でもあるらしい。つまりカオスというのはあちらを立てればこちらが立たない。こちらを立てればあちらが立たない。だからどちらも立てられない。何とかしなければならないという気持ちはあるにはある。

 しかし、何か一つでも行動をおこすとすべての要因が一斉に変化し始めて収拾がつかなくなってしまう。心配が先駈けしてしまう。だから、ああでもないこうでもないと現状を打破することに最大の努力を払っているフリを見せる。複雑系というのもカオスとよく似たもの(実は同じなんですが)で、がんじがらめに凝り固まってしまった状態において、何か一つでも解きほぐそうとすると、その何か一つが思いもよらぬ方向にジャンプしてしまう。収拾がつかなくなってしまう。心配が先駈けしてしまう。心配が先駈けするというのは、クヨクヨ、ウジウジしているだけということの別名でもある。

 こうなると、困ったことになる。今までと違ったことはできにくくなる。もっと困るのは、例えば、今まで何の疑問もはさまずにやってきた商習慣が、突然、悪いことだと摘発されてしまうようになるものだから、今まであたりまえのようにやってききたことさえ、いちいちお伺いを立てなくてはできなくなってしまう。お伺いを立てられた方は、お伺いを立てられたこと事態が今までとは違った新しいことだから、お伺いの内容を聞く耳を持たなくなってしまう。お伺いを立てられた心配だけが先駈けしてしまう。『誰が責任をとるのや』と。すると、見事に体が動かなくなる。別名、《頭でっかち》状態とも言うのだが。まだ何もしていないのに、やった後の結果を勝手に想像して決めつけてしまう。挙げ句の果てには、先のことはわからんと言いながら、今のことさえ何もやらなくなる。本当なら、『先のことはわからんから、ちょこっと様子見でやってみようか』が、あたりまえの日本の姿だったのが、逆どころか、皆目わけがわからなくなっている。好むと好まざるに関わらず、難儀な時代になってしまったのである。

 打開策はあるのだろうか。無論、それはある。カオスとか、複雑系というは、ある日突然、そうなってしまったものではなく、ある一定の時間が経過したあかつきにそうなってしまったものである。それも、ある目的に向かって秩序だてられた意志の元での、単純な行いの反復の結果、そうなったものである。少なくとも、今日の混沌としたカオス的な日本の始まりは、1945年8月15日が、その始まりであったと言えるだろう。そこに存在したものは戦争によってすべてが破壊されことで《無》になってしまった《無》であった。初めから何もなかった《無》ではない。当然のように、日本には、日本という国を再建しようという日本人一人一人の強い意志として、天皇を中心とする秩序が、当時は凛としてあった。失ったものを再び手にしようとする単純な願いがあった。その時点では、まさに、時代は、今日のカオス的とか、複雑系とか言われている状態の対極とも言える、コスモス的であり単純系であった。

 そしておよそ半世紀が経過した。まさか半世紀前の、その当時、浜松の小さなオートバイ屋が、あるいは、東京の品川で細々とトランジスタラジオを作っていた東京通信工業が、今日、世界のHONDAとして、SONYとして存在しているなんて、いったい誰が想像しえただろうか。しかし、そのHONDAにせよ、SONYにせよ、今日のグローバルマーケットにおいて、創業当時の秩序だてられた意志の元で、独創的なものをつくろうとする、単純明快な目的に向かっての経営方針で対応できるのだろうか。答えはあきらかにNoである。

 例えばHONDAにおいては、速い車の開発には環境問題と省資源の問題が複雑に絡まり、そのための経営判断は、あちら立てればこちら立たずの、まさにカオスの縁とも極みとも言えるだろう。SONYにおいては、昨年の暮れに死去された井深大氏が創業時に唱えた、『真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設』は、いままさに、任天堂の二番煎じであるプレイステーションが、その理想工場から生産されている。独創的な製品開発の志はどこに発散してしまったのだろうか。

 物事の流れには、必ず始まりがあって、途中経過があって、終わりがあって、という自然系の理(ことわり)が決められている。そして同時に、物事の始まりにおいては、始まりの位置は単純明快に決めることができても、物事の終わりにおいては、ここが終わり、と単純明快に終わりの位置を決めることができない人間系の理(ことわり)が存在するのである。物事がめいっぱいに進化すると、必ず飽和し始めるのである。そして、さらにその飽和が進むと、今度は過飽和になり、その瞬間、何か異物が混入されるか、何かに揺さぶられるかすると物事は一挙に崩壊するか、まったく新しい形態を伴って再生するかのいずれかの道を選択せざるを得なくなるのである。カオスとか、複雑系とか言われていることは、そのようなことを難しく述べているに過ぎないのである。

 栄えるものは、いずれ一つの小さなほころびから滅びる運命にあるのは世の常であり。満ちた月は、いずれ一つの小さなかけらから欠け始めるのも世の常なのである。問題は一人一人の個々の力の再認識にある。HONDAにせよ、SONYにせよ、創業当時は、社員一人一人の力の出しようが目に見えるカタチで存在していたのである。私が力を出せば、全体の力を増幅させるという自他共に認め合った力である。しかし、その力も、社員が百人、千人、一万人と増えるにつれ感じられなくなってしまったのである。そのうち、ウァーンという個を特定するのが難しい全体の力が支配するようになってしまった。この状態がカオスであり複雑系なのである。

 今、私たちは心を澄ます時期なのである。一人一人の個々の力に心を澄ます時期なのである。今の複雑にしてカオス的な状態ができあがってしまった始まりは、あきらかに一人一人の個々の力の発揮が始まりであった。そして、今の、この状態を終わらせるのも、さらなる形態にジャンプさせるのも間違いなく一人一人の個々の力の発揮なのである。当然のことではあるが、一人一人の個々の力は、初めのうちは全体の力にかき消されてしまうのが道理である。しかし、一人一人があきらめずに力を出し続ければ、やがてある日、突然、すべてが不連続に変化し始めるのである。それがいつなのかは残念ながら予測はできないが、訪れることは必然である。

 カオスにまつわるいい話がある。あるところに重さ1トンの釣り鐘があった。その釣り鐘をか弱い女性の小指で動かすことができるかと賭をした人がいたそうである。結果は、137人のか弱い女性が小指で1回ずつ押し続け、まさに138人目の女性が押した瞬間に、重さ1トンの釣り鐘は動き始めたのである。また、これもよく知られた話であるが、昔、ある王様に仕えた軍師が手柄を立てたその褒美として要求したことが、1日目に1粒、2日目に2粒、3日目に4粒と、碁盤の目の数だけの日数分のお米を倍々にしてくださいということだった。王様は、そんな僅かな褒美でよいのかと言われ、気軽に応じたらしい。結果は、わずか一粒のお米が、やがて王様が所有する国中のお米を集めても手の届かない量のお米を意味していた。

 カオスとは、複雑系とは、じつは、一人一人の一つ一つの個々の力を認識せざるを得ない法則でもある。例えば選挙のときに、今までは、私が投票する1票の力なんて何の影響も与えないというのが事実と思われていた。しかし、今は、すべてが過飽和になっている状態なのである。たったの1票が、我が国の政治のすべてをドラスティックに変える引き金になる時代なのである。今夜、たまたま入ったコンビニで、いつもは一つしか買わないおにぎりを二つ買ったことが、300万トンあったと思われていた備蓄用の古米をすべて消費してしまう結果の引き金になるかもしれない。

 カオスとか、複雑系とかいう言葉が一人歩きし始めた時代は、『どうせ私一人が頑張ったって、世の中、どう変わるわけじゃないし』という時代ではない。『私一人が信じ続けて、頑張り通せば、世の中がガラリと変わるチャンスがある』という時代なのである。モノは試しである。物事というのはすべからく、やってみたってやらなくたって結果は半々である。だったらやってみて損はない。カオスとはそんなことを言うのである。複雑系とは、そのような状態を言うのである。幸運は、準備された心に訪れるのである。

以上

インターネット新大陸を目指して。

インターネットは、さまざまな情報が資源として埋蔵されている、
“知の宝庫”そのものなのである。
私たち人類は今、その“知の宝庫”であるインターネット新大陸を
目指すために、パソコンという“コンピュータ帆船”を操り、
<WWW>(ワールド・ワイド・ウェブ)という“ネットワークの風”を背にうけ、大航海へと旅立とうとしている。

今までの価値基準。これからの価値基準。
インターネットを『新大陸』であるとする根拠は、インターネットそのものが、じつは、さまざまな情報資源が埋蔵されている“知の宝庫”そのものではないだろうか、とすることにある。
 当然のことであるが“知の宝庫”に一歩足を踏み入れれば、そこにはすべての資源が情報という名前に形を変えて眠っている。問題は、どこに眠っているか、どこに埋蔵されているかであり、そして、その埋蔵されている資源が、現代の私たちの価値基準にかなっているか、かなっていないかである。
 前者の埋蔵されている場所を探すことは、科学技術が飛躍的に発達した今日、それほど難しくないことであろう。しかし、価値基準にかなうか、かなわないかの判断は難しくなりそうである。
 例えば、200年前、ある原野に黒い泥水が湧いていたとしよう。その泥水の存在は当時の人たちには、ツンと鼻につく臭いがする、ただの泥水でしかなかった。また、南太平洋のある島での話であるが、その島は島中が鳥の糞だらけの島だった。さらにオーストラリアの砂漠にはただの荒涼としたガレキの山が連なっていた。
 今日、それらの鼻つまみものが、石油として、リン鉱石として、ウラン鉱石として莫大な富を産み出し、近代社会の形成に不可欠な資源となったことは言うまでもない。価値基準の判断は、なんとも難儀なテーマである。ましてや、インターネット新大陸と定義しようとしている、今度の新大陸で発掘しようとしている資源が、目に見えない知的所有物の類であるとするならば、目がくらむ思いである。
 しかし、そのような目がくらむ思いは、私たち人類史上において珍しい問題ではなく、つい500年前の、15世紀の時代のコロンブスやマゼランやバスコダガマが活躍した大航海時代の幕開けのときに経験していることでもある。そのときの社会の風景や風土が、500年経過した今日と、よく似ているといえば似ているのである。

革新は飽和した瞬間に、不連続の連続で起こる。
 その当時、ヨーロッパ大陸ではルネッサンスの嵐が吹き荒れ、権力構造や、政治システムや、社会システムや、産業システムや、富の分配システムなどが、ダイナミックに様変わりしようとしてした。
ヨーロッパ大陸全体が逼塞しつつあったといってもよかった。いわば社会全体が過飽和状態を迎えていたともいえる。過飽和状態の常として、過飽和状態の中にある種の播種が為されると、その過飽和状態は、一挙に、まったく新しい形態として生まれ変わる。例えば、今まで<液体>の状態であったのが、突然、<結晶>の状態になってしまうようなものである。
 当時のヨーロッパ大陸はそのような時代であり、播種が、まさに大航海であり、その結果が、新大陸としてのアメリカ大陸の発見・移民・開拓であった。大航海以後、ヨーロッパ大陸を中心とする文明・文化の流れは、確実に、アメリカ大陸を中心とする文明・文化の流れへと変わることを十分に予見させるものでもあった。今日は、まさにその延長線上にある。

500年前のベンチャービジネス。
 さて、1500年代のヨーロッパ大陸で、新大陸を目指した人たちには、2種類の人たちがいた。帆船に乗って命を懸けて新大陸を目指した、いわば冒険者(ベンチャー)たちと、その帆船を工面する資金を、それこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で提供し続けた、その当時の時代の権力者・資産家(キャピタリスト)たちであった。どちらの種類の人たちも目指したのは新大陸ではあるが、“黄金のジパング”に代表されるように、目的は当時のヨーロッパ大陸における価値基準(基軸価値)であった<金>を手に入れることであった。
 結果はどうであったか。新大陸を目指した人たちも、その資金を提供した人たちも、それなりの<金>を手に入れることができたが、コロンブスにいたってはたどり着いたところが、今のキューバということもあり、大航海の資金を提供した権力者や資産家たちの満足をかなえる量ではなかった。もちろん、別ルートで南米大陸に到達したスペイン人たちは、略奪の限りを尽くして、<金>をはじめとするかなりの財宝を手にはしたが、それらの財宝もすぐに取り尽くしてしまった。
 新大陸を目指し、その新大陸を発見したことによって莫大な利益を手にした人たちは、決して<金>を手に入れようとした人たちではなかった。むしろ<金>に固執した人たちは、資金を提供した人たちも含め、その後10年もしないうちに、滅亡の憂き目にあっている。当時の10年は、今の時代の速さで比べれば、それこそ数ヶ月という時間であろう。
 では、一体、新大陸を目指した人たちの、誰が、どのようにして莫大な富を手にしたのだろうか。そして、その富は何だったのだろうか。

明日の<基軸価値>は、初めから輝いてはいない。
 一つには胡椒であった。一つには綿花であった。胡椒は、大航海によって初めてヨーロッパ大陸に大量に持ち込まれたものであり、その胡椒は、それまでのヨーロッパ社会における<肉食>の文化をドラスティックに変革してしまった。綿花は言うまでもなく、産業革命の表舞台の主役である蒸気機関と共に陰の主役となったのである。そして、胡椒と綿花は、同時に、交易文化(ネットワーク文化)の起爆剤となり、西と東の融合(ボーダレス)が始まったのである。もちろん、当時のネットワークを飛び交った端末は帆船であり、データは胡椒や綿花などの原材料であった。
 では、<金>を目指した人たちは、なぜ滅亡の憂き目にあったのか。彼らは、どこに行けば<金>があるか。<金>が在る場所の情報のみを追い続け、決して自ら発信することがなかった人種であった。彼らが価値観をおいたのは、既に金として生成されたインゴットであった。たとえすぐ足下に莫大な量の金鉱石が埋まっていたとしても、その金鉱石は光り輝く黄金色ではなく、白い石英色にわずかな黒い点が黄金色をはなつことなく、ちりばめられていたモノでしかなかった。彼らの頭の中には、その黒い点が金と同じモノであるという知識(既成の常識を飛び越える直感力)がなかったのである。当然のことであるが、インゴットとしての<金>はすぐに取り尽くされ、新大陸での彼らの役割は瞬間的に終わったのである。

情報を呼び込む人、情報を見つけに行く人。
 一方、胡椒や綿花に価値観を見いだした人たちはどうであったか。彼らは決定的に違ったのである。彼らはある時から情報を探し出す最善の手法は、情報を見つけに行くことではなく、情報を発信し続けることであると気づいたのであった。「私は胡椒が欲しい。どこそこにその胡椒を持ってくれば、美しいガラス玉をあげる」といった情報を発信したのである。そして、彼らの中にはさらに深く気づいた人種がいたのである。胡椒を持ってきた人たちから胡椒とガラス玉を物々交換しながら、胡椒の作り方を聞き出すことの価値に気づいた人種である。胡椒の作り方を聞き出した人種は、胡椒をプランテーションで大量生産する知識を既に小麦の栽培で習熟していたのである。
 コロンブスの話が長くなってしまったが、インターネット新大陸の話はどこに行ってしまったのか。じつは、インターネット新大陸の話は、コロンブスの大航海の話とまったく同じと言ってもいい。つまり参考にできるのである。参考にできるどころかバイブルにできるのである。
 ネットワーク新大陸を目指そうとしている人たちが、そこで何を見つけようとしているか。<金>なのか、<胡椒・綿花>なのか。はたまた、<胡椒・綿花>の栽培方法を見いだそうとしているのか。

利用するための知識は、無限の富を創出する。
 インターネット新大陸にはすべてがある。あたりまえのことである。インターネットにつなげられたコンピュータには、そのコンピュータを使用している人間の知識が網羅(ハードディスクなどに)されているのである。しかし、その知識とは、インゴットとしての<金>ではなく、<金>鉱脈を見つける知識とか、金鉱石を精錬する知識である。さらには、胡椒という草花の実を肉にまぶすと味が良くなるとか、保存がきくとかいった類の知識である。実現手段である。目的は自らが『何をしたい』と創り出さなければならないのである。自らが『何をしたい』を創り出したらインターネットで発信すればいい。「こんなことをしようと考えついたのだけど、誰かいい知識を持っている人はいませんか。一緒にやってみたいという人はいませんか」というように。この発信のためのコストたるや、既存の広告メディアのコストを考えると桁違いに安い(何円の世界である)。誰でもが気軽に情報発信者となることができる。情報発信者とは、従来の常識で言うと権力者と同義語のことである。

インターネットでは、一人一人が絶対者。
 だからこそ、インターネット新大陸では、絶対ともいえる一つのルールが暗黙のうちに存在するのである。自らの行動は自らの責任と規範で、自らがルールを形作り遵守していかなければならないのである。この事実も、じつは権力者としては至極当然の事実なのである。以上の事実を自らが自覚しなければ、このインターネット新大陸では、あっというまにはじき出される運命になる。インターネット新大陸では、一人一人が絶対者なのである。自らを律することができる<個>と<個>と<個>が無限に、そして同時共時に有限にネットワークし合って共生し合う社会に生きる絶対者なのである。それが来るべきインターネット社会の在るべき姿なのではないだろうか。ヒューマンネットワーク社会なのではないだろうか。

以上

企業における、不測の事態(例えば主力商品の突然の売れゆき不振)に対する危機管理対応について。

『社内意識変革運動の定義が、まず必要になってくる』。

 これからの企業は、全社員に対して危機管理意識の植え付けを社内的な文化として醸成し、その実践のためのマネージメントシステムの確立が不可欠になる。その意味において人事部が、まず変革されなければならない。その最大の変革テーマは人事部における、その任務にある。今日の人事部の人事評価基準は、従業員の90%が、差のない仕事を行う未熟練の労働者であった時代、すなわち第一次世界対戦の頃のそのままである。
当時の労働者に対する基本的な概念は、<労働者は、コスト>であった。
 しかし、今日の企業では、煙突産業においてさえ、10人のうちの3人がこのような概念<労働者は、コスト>にあてはまるにすぎない。残りの70%の人たちは、それぞれまったく異質の、しかも多くの場合、専門的な仕事についている。彼らは、労働者ではない。知識資源である。従って、資源はコストを最小にするためではなく、成果を最大にするために管理されなければならない。今日の労働者といわれている人たちは、かつて労働者といわれてきた人たちとは、明確に異なる。
彼らは、コストといわれてきた労働者ではなく、知識資源と定義されるまったく新しい労働者である。彼らは必然的にコストを伴う存在である。

したがって人事管理システムは、コストを最小にするための人事管理システムではなく、成果を最大にするための、新しい概念による人事システムの上で、管理されなければならない。
工業社会から知識社会への変化は、不連続であるという事実。
 当然、工業社会から知識社会に変わるすべての価値観、意味の定義、概念の変化はドラスティックでなければならない。ある日、突然、変わるものであるという認識が不可欠である。

知識社会における基軸価値観は、与えることを最大目的とする社会である。
 与えることを最大目的とする社会における労働の定義を知識労働とする。知識社会における最大獲得労働形態は、サービス業である。おそらく知識社会における労働者比重は、80%を越える人たちが、何らかのサービス業に従事しているはずである。

サービス業の基本とは何か?
サービス業の基本は、人のために何かをすることを前提としている。
 サービス業において、その職種には基本的に上下の違いはない。自分以外の人をサーブしている状態であることが、サービス業を全うしているという概念である。
サービス業がサービス業であるという定義は、自分以外の人たちのために何かをしているという意識の確立である。

人のために何かをするということは、影響を与えることである。
社会において、自分という存在を確認できる行為をしていることである。
サービスとは文化であると仮定すると、
現在、不明確、もしくは未定義になっている多くの事柄に対して、
きわめて明確な回答を用意することが可能になる。
 文化に対する、本来の評価の方法は決して否定しないことである。また、好き、嫌いという判断さえも用いないことである。唯一可能な評価方法は、その文化を受けいれることができるか、できないかの判断である。したってサービスを行使する側の行動価値判断は、その人が行使しているサービス、つまり文化を受け入れてもらえる領域を模索することである。
 この概念の基本とするところは、サービスの成果は、サービスを行使する側にはなく、常にサービスを受け入れる側にある、とすることにある。

知識社会における労働形態の80%は、知識労働である。
知識社会における労働者の80%は、サービス業に従事しているという。
よって、知識社会における最大産業は、知識産業である。
サービス業の概念は、サービスを実施する側の文化の提供ビジネスである。文化は、本来、個人に属するもので、その個人の集合体であるマジョリティオピニオンを、社会的な認知のもとに、文化といっているにすぎない。
文化をなしている原始ユニットは、個である。
その意味で文化とは、個人が生きてきたすべての経験値であり、評価値であり、価値観である。
 したがって、サービスとは、その人の文化である。当然のことであるが、その人の文化を否定することはできない。そのサービスであり、文化であるものの評価・査定方法は、それを受けいれることができるか、できないかだけのことである。

工業社会における基軸価値観は、獲得することを最大目的とする社会である。
獲得することを最大目的とする社会における労働の定義を非知識労働とする。
 自分のために何かをする、自分のことをまず初めに考えようとする人たちが最大公約数を占める社会を工業社会という。その社会においては、所有の概念がきわめて顕著で、しかも獲得し続けることが連続するために、その社会における価値観は、その社会に決して蓄積されることなく消費されていく。そして、その消費していくものは、目に見えるモノ、生産物である。
 その意味において、この社会におけるモノ資源は、時間とともに、消費とともに減少していく。この概念を有限資源という。
社会の概念を企業組織とすると、もう一つの別の次元の見え方が可能になる。

人間は本来、<自分のためにのみ何かをすること>をプログラミングされていないのではないかということを仮定すると、働くこととは何かという問題点は、きわめて明確になってくる。
 人間は、本来、一人では存在できない動物である。コミュニケーションを基本とする社会を構築し、その中で団体行動する動物である。したがって、人間は、絶えず存在していることを自分自身で確認していかなければならない。自分の存在を他人に認識させる手段は、唯一、他人に対して影響力を与えることである。他人に対して何かを成し遂げているという認識である。
 他人に対して何かを成し遂げているという認識を持たなくなった瞬間、人間は働くことをやめ、社会との接触を断つようになる。仕事をしている意識は、自分のためにではなく、他人のために何かをしていることを感じ、その結果、存在理由を見いだし、さらに生きていく力を手にいれるのである。
 存在理由の重さの量は、自信の量と等価であると仮定することができる。

知識社会における基軸価値観は、与えることを最大目的とする社会である。
与えることを最大目的とする社会における労働の定義を知識労働とする。
人のために何かをしてあげたいとする人たちが最大公約数を占める社会を知識社会という。その社会においては、所有の概念はきわめて希薄で、しかも与え続けることが連続するために、その社会における価値観は、その社会に蓄積され続ける。その蓄積されているものを知識という。
その意味において、この社会における知識資源は、永久に増え続ける。
この概念を無限資源という。
知識社会における最大労働形態をサービス産業と定義するならば、知識社会は<与えることを最大目的とする>とする社会であるとする定義と一致する。そして、知識社会における、さまざまな言葉の再定義をしなければならない。
つまり意味の管理である。

◎仕事の定義:知識社会においては、仕事はサービスすることであり、人のために何かをし続けることである。
◎人間の定義:人間は、本来、自分のためにのみ行動を起こすことができる、とするプログラミングは組まれていない。なぜならば、人間社会は一人の存在を初めから認めていないからである。人間社会の原始単位は二人であり、もう一人のために何かをする、その結果において得られる存在の確立、満足感、自信などのリアクションを、行動のエネルギーとしている動物である。人のために何かをすることを放棄、もしくは休止した瞬間に、人は働くという行為を停止し、他人からの関心、自分自身の存在感の確認をしなくなる。行動のエネルギーを手にできなくなるのであるから、自然に、浮浪者・ホームレスへの道を成り行きとして歩むようになる。働くことにおいて最終的に手にする満足は、自分自身の存在の確立である、他人からの評価である。したがって、働くことの定義は、人のために何かをすることとなる。

事実、知識社会における労働者の80%以上は、何らかのサービス業に従事するようになる。サービスと名前が付く仕事は、すべて知識労働であると定義することができる。その理由は、サービスと名前が付く仕事において、その仕事の評価を定めるための明確なメジャーは存在しない。存在するのは、そのサービスを受けた顧客の側の満足、不満足でしかない。

◎知的仕事:与えることを最大目的とする仕事=結果責任が問われる仕事=知識社会における主要産業=サービスと名前が付く仕事
◎非知的仕事:獲得することを最大目的とする仕事=プロセス責任が問われる仕事=工業社会における主要産業=決められた時間内の決められた仕事

ならば、知識社会における労働はサービスと再定義することが可能になる。
なぜならばサービスの定義は、与えることに他ならないからである。

以上

社員の仕事力をn倍にする方法

技術系&事務系組織におけるネットワーク化の在り方

たとえば、社員の仕事力をn倍にするための前提条件。
 今まで、コンピュータは会計・財務の処理マシンとしてそれぞれの企業に導入され、現在、その事業規模にかかわらず、ほぼ100%の企業がなんらかのコンピュータを導入・運用しているのが現状である。そこで発生したビジネスがコンピュータによる経営コンサルテーション(正確に言えば財務のみのコンサルテーションビジネス)である。
 しかし、今日、各企業においてコンピュータの世代は、一次導入目的(定量データ化された会計・財務の高速処理)から、二次導入目的へと進化した。二次導入目的は、基本的には企業内部に発生している定性データの高速処理である。具体的には、営業業務・開発業務・管理業務などの各種業務処理の高速化である。
 当然、そこでは新しいビジネスが発生しようとしている。業務コンサルテーションといえる、新・経営コンサルテーションビジネスである。

企業が発揮できる仕事力には、法人仕事力と社員仕事力の、
ふたつの仕事力が存在することを認識しなければならない。
 そのコンピュータが、法人仕事力を増やしているコンピュータであれ、社員仕事力を増やしているコンピュータであれ、その最終的な導入メリットは企業組織としての仕事力を増やすことである。
 企業組織としての仕事力を算出する手段として、法人として発揮できる法人仕事力と社員がいるがために発揮できる社員仕事力がある。コンピュータ導入におけるコストパフォーマンスの計算は、法人仕事力と社員仕事力の直間比率の見直しが不可欠である。
※仕事力の定義を業務遂行力とすると、上記の論はさらに明確になってくる。

企業における法人仕事力と社員仕事力の比率を確認する。
 企業における企業力は社員仕事力と法人仕事力の合算による。そして、その比率は、その企業の業種や体質によって異なる。営業マンをいっさい使わずに、その企業が売り上げできる力を仮想法人仕事力という。従って、企業力から仮想法人仕事力を引いた数値を仮想社員仕事力という。
 これからのコンピュータの役割は、たとえば、ある会社で営業部門で最も優秀なAさんの業務能力の知識を他の社員が自由に利用でき、しかもその結果、蓄積できた業務知識を共有できる環境をつくりだすことである。つまり、その最大の効果はAさんのアシスタントを、人件費はもちろん、事務所において机や椅子などのスペースを増やすことなく、雇用したのと同じ効果をあげることである。
 企業における法人仕事力と社員仕事力の実質的な比率配分を、まず算定する。その比率の違いは、おそらく、その企業の利益獲得形態と合致するはずである。また、直接営業にたずさわる社員と、直接営業にたずさわらない社員との比率にもよる。コンピュータの役割と機能は、まず、企業における法人仕事力の比率をあげることであり、同時に実質的な社員仕事力の比率をあげることである。
 企業におけるコンピュータの導入の役割と機能は、その企業の通信力と記録力と整理力と保存力と表現力と仮想力と推察力と検索力を増力することであり、その結果として社員間コミュニケーション力・組織間コミュニケーション力・企業間コミュニケーション力を増力することである。しかし、そこには組織に属している人間のヒエラルキーが存在する。それは全社員の一人一人が構造的に抱えている問題点でもある。既得権益が侵犯されると感じた瞬間に発生する縄張り意識、自己保身意識、人間不信意識である。
 コンピュータがシンプル化・高機能化・高速化・高度化するコミュニケーションの風通しの良さ(高品質化・高収益化)を阻害するのは、ほかならぬ社員としての人間であり、さらに、人間が使用している言語の多様化による意味の不一致感である。つまり、企業内で使われている言語の閉鎖性にほかならない。

社員一人一人にコンピュータがあり、
そのコンピュータを活用している、つまりコンピュータの機能と役割を
確保している状態であるならば、
その企業の法人力と社員力は飛躍的に向上することはまちがいないことである。
 コンピュータを戦略的に活用する最大メリットは業務コンサルテーションが機能する場を確立することである。コンピュータの基本的な役割と機能は、省力ではなく増力にある。まず、このポイントを明確にする必要がある。
 企業の仕事力をn倍にすることは、社員の業務遂行力をn倍にすることでもある。人的資源として、あるプロジェクトに社員を投入しようとするとき、正確に認識しておかなければならないことがある。それは、そのプロジェクトをマネージメントする手段の認識である。そのプロジェクトチーム間に発生するコミュニケーションコストとコミュニケーション速度とコミュニケーション効率の算定を正確に測定できるシステム化が不可欠である。

※1+1+1=3にはならないという現実。
たとえば、あるプロジェクトに10人の社員を投入していたとする。しかし、そのプロジェクトの成果が思うように上がらないので、さらに10人の社員を投入するとする。
結果は、おそらく目に見えるような成果、つまり20人分のマンパワーの成果は期待できないことが多いはずである。なぜか?
 コミュニケーションをマネージメントするシクミが存在していない、できていないからである。10人の社員でしていたプロジェクトにおいて、10人の社員間でどれだけのコミュニケーションが実現していたのだろうか。もし、その10人の社員間で充分なコミュニケーションがとれていたのなら、一人の社員が他の9人の社員の知識をすべて共有できるカタチであったはずである。
 もし、そのようなカタチが実現していれば、社員一人の仕事力は、9人分の社員の知識に自分の知識、1人分を蓄積した10人分の仕事力を手にした社員が10人いる。この場合は足し算ではなくかけ算になる。
 10人×10人は100人である。当然、10人で100人分の仕事ができる、そのプロジェクトチームが成果を上げないわけがない。成果を上げたプロジェクトチームの社員一人一人の知識量は一人あたり100人分の知識量が蓄積されたはずである。次のプロジェクトを、そのメンバーが担当する場合は、たとえ3人でも、300人分の知識をフルに使って仕事をこなしていくはずである。
そのことを可能にする力が、コミュニケーションのマネージメント力である。

企業に導入されたコンピュータが十分に機能しない、その原因について。
そのコンピュータのハードウェアが造られるために使われた知識の総量と、アプリケーションソフトが造られるために使われた知識の総量との圧倒的な違いが、コンピュータが活躍する場を阻害している第一の要因である。
 コンピュータのハードウェアの製造は、そのハードウェアを構成しているほとんどの部品が規格化され標準化され、既に工場生産の段階になっている。工場生産の段階になっているということは、たとえ国が違っても、会社が違っても、工場が違っても、その生産に関わっている何千、何万、いや何百万人の人間の知識が統合化され、トータルで集積されている結果である。従って、コンピュータのハードウェアが製品化するまでに注ぎ込まれた知識の総量は、じつはものすごい量なのである。
 一方、コンピュータのアプリケーションソフトは、いまだに規格化も標準化も、ほんのごく一部しか達成されていない。従って、その生産システムは工場生産システムどころか、一人一人の手作業による家内制手工業である。アプリケーションソフトが製品化するまでに注ぎ込まれた知識の総量は、そのアプリケーションソフトがどのような機能を盛り込まれたものであろうと、たとえ何十万ステップ数を誇ろうとも、数人の人間の知識の総量が注ぎ込まれたものでしかない。規格化・標準化されて工場生産されたハードウェアに注ぎ込まれた何百万人の知識の総量に、はるかに劣るものでしかない。
このアンバランスが、コンピュータの普遍的な発達を阻害している最も大きな原因である。しかし、この原因の意味を正確に認識している人たちはきわめて少ないことも事実である。コンピュータのハードウェアも初期の生産システムでは、家内制手工業の域を一歩も出ていなかったことは事実である。
 すべての部品は手作りされ、何一つ規格化されていなかったはずである。すべての部品のすべてを一から作り上げなければならなかったはずである。一台のコンピュータを作り上げたら、そのために費やした知識の大部分は記録されることなく忘れ去られ、決して次のコンピュータを作り上げるための知識として存在することはなかった。ましてや、他の工場や外国の工場で作られているコンピュータを作り上げるための知識として存在するということは、万が一にもなかった。
 しかし、この事実も、多くの部品が規格化され標準化されるにしたがって、コンピュータを作り上げるための知識は記録され蓄積され集積、共通化されてきた。
一台のコンピュータを作り上げるために、
何百万人の知識が注ぎ込まれる結果になったのである。
コンピュータのアプリケーションソフトを作り上げている環境は、まさに、ハードウェアを作り上げていた初期の頃のレベルではないだろうか。この知識量のアンバランスが、コンピュータを使う側の人間との間で不信感を起こし、その結果がコンピュータは結局、人間にとって有効な働きをなしえない、タダの箱化しているに過ぎないのである。
(ハードウェアを作り上げるために注ぎ込まれている知識の総量)ー(アプリケーションソフトウェアを作り上げるために注ぎ込まれている知識の総量)=0量
上記の公式が成立することによってはじめて、コンピュータと、それを使いこなす人間との関係は信頼関係が発生し、道具をいたわったり、手入れしたり、感謝したりという気持ちがわきあがってくるのである。この関係においてはじめて、その道具は人間がやろうとする仕事に対して最良のパートナーとして機能するのである。
※注ぎ込まれている知識の総量は人間の知識の集積化・共有化レベルに比例する。
(ハードウェアを作り上げるために注ぎ込まれている知識の総量)ー(アプリケーションソフトウェアを作り上げるために注ぎ込まれている知識の総量)
=プラス量orマイナス量
※注ぎ込まれている知識の総量は、人間の知識の共有化レベルに比例する。
 前述の公式が存在している状態では、コンピュータと、それを使いこなす人間との間に信頼関係は存在していない。道具であるコンピュータをいたわったり、手入れしたり、感謝したりする気持ちは起こらない。従って、仕事が上手くいかないのを道具のせいにしたり、最後には道具を使わなくなったりするようになる。
 コンピュータにおいて、ハードウェアの製造は工業生産システムが可能になってはじめて、道具としての、人間のパートナーとなりえるようになった。工業生産システムとなりえた原因は、1に部品化、2に部品の規格化・標準化、3に生産の自動化、4に品質検査の自動化である。従って、コンピュータにおけるアプリケーションソフトの製造も、1に部品の規格化、2に部品の標準化、3に生産の自動化、4に品質検査の自動化の実現をなくして、有能な道具としての信頼性を確保することは不可能である。

モノ生産の自動化が進展すると、必ず知識生産の自動化が必然となる。
H/W・K1-S/W・K2=-n
・H/W・K1=ハードウェアの開発に注ぎ込まれた知識量
・S/W・K2=ソフトウェアの開発に注ぎ込まれた知識量
・n=満足度指数
<A>ハードウェアに集積された知識量がアプリケーションソフトに集積された知識量を下回った状態では、それを使う人間の道具意識は、コンピュータを道具としては不完全なものとしてとらえ、実用に足りうるとは考えない。従って、当初は使用しても、すぐに使用しなくなる。
H/W・K1-S/W・K2=+n
<B>ハードウェアに集積された知識量がアプリケーションソフトに集積された知識量を上回った状態では、それを使う人間の道具意識はコンピュータを専門家が使う特別なもの、不可思議なものとしてとらえ、コンピュータの導入は一定のレベルまで促進されるが、すぐに飽和点に達して、コンピュータを利用することの本質を理解しようとする機運はまったく起きない。
H/W・K1-S/W・K2=0
<C>ハードウェアに集積された知識量がアプリケーションに集積された知識量と等しい状態では、それを使う人間の道具意識は、コンピュータをパートナーとして捉え、コンピュータをいたわり、大切にし、コンピュータの機能を最大限に発揮させるために、人間が自ら考え、人間の意思によるコンピュータの継続的使用環境がかたちづくられる。

以上