YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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人が余っている。同時に人が足りない

 「どこかに“いい人”いない?」。この場合の“いい人”とは仕事ができる人のことです。“人手”のことではありません。いま、企業が欲している人は「仕事をする人」ではなく、「仕事ができる人」へとシフトチェンジしているのです。「仕事がありませんか」と問い掛ける人たちには求職のチャンスはわずかしかありません。「この仕事がしたい」と問い掛ける人たちには求職のチャンスは、それこそ山のようにあるというお話です。

 今から20年以上前に、P・F・ドラッカーがいみじくも述べた、ある会社における人事部での面接のやりとりが思い出されます。「いったいあなたは、私たちの組織に対して、どのような貢献をしてくれるのでしょうか」。非営利企業における面接現場でのやり取りです。これからの時代は、あきらかに、この非営利企業における意識が不可欠な時代になるのです。キーワードはボランティアであることです。

 しかし現実は、このボランティアであるという意味を、「無料奉仕」という日本語に翻訳したがゆえに悲劇が始まったとも言えます。自らが考え、自らが決断し、自らが責任をとるという決意をあらわす言葉、これがボランティアなのです。自発的であることなのです。無料奉仕の意味では決してないのです。あえて言うならば、報酬は二の次にしても、仕事に納得できれば折り合いがつく、という意味なのです。

 自発的であることは、スピードがあがるということです。行動が早くなるということです。現場レベルで決断できることです。権限委譲ができることです。行動のベクトル、つまりビジョンが一致していることです。明確なビジョンが共有化され、そのビジョンに対して納得と合意ができることです。何をすべきかが共有化されている組織。何をすべきかを的確に宣言し、そのために必要なリソースをサポートしつづける経営者。ボランティアという言葉は、軍隊用語において「志願兵」を意味していたのです。対極にある言葉は「徴兵」であり、ドラフトでした。

 戦争ほど明確なものはありません。敵を殺せ、殺さなければ自らが殺される。国を守れ、守らなければ、自らの国が滅ぶ、家族が殺される。言葉は悪いが、一つの真実がこめられています。「自発的である」という言葉には、決意と、自覚と、人のために、という「意志」がこめられているのです。

 そして、この「意志」がもっとも希薄な上に構築されようとしている制度が、わが国における「ストックオプション制度」といえます。ストックオプション制度を導入するためには、企業の業績を、経営する側と同じレベルと密度と速さで共有しなくては不公平であるにもかかわらず、業績(株価)が上がったら利益を手にできるというまやかしを、いったい誰が信じるのだろうか。「ストックオプション制度」の導入の前提は、経営のガラス張り化です。役員会議に出席する必要は無いが、役員会議のありのままを伝える情報開示が不可欠であるにもかかわらず、その仕組みができていないのです。

 もはや、決算書をそのまま信じる人間などいない、といってもいい。知りたいのは、決算書を作成するに至った経緯であり、すべての真実はそこにあるのです。役員会議のありのままを伝える情報開示をガラス張り化する仕組みができていない会社において実施されるストックオプション制度は、企業を衰退させる制度となるのです。

貧しい社会のルールから、豊かな社会のルールへ

 価値観が多様化したという事実からみれば、この問題は複雑な話になります。お金があるから豊か、無いから貧しいという簡単な問題ではなくなります。「人間の自由な意思」の問題なのです。

 一つの定義として、社会の供給力が、社会の需要力を上回っている状態を豊かな社会と定義します。社会が供給するモノは何でも構いません。仮定すればいいのです。その仮定したモノの供給力と需要力の関係が、「豊かな社会」か「貧しい社会」を判断する、一つの基準値となりえるのです。

 例えば、わが国の場合の「お米」とします。日本の社会において、お米は、現時点では供給力が需要力を上回っています。従って、お米の供給と需要のルールは、豊かな社会のルールが適用されます。米穀通帳をつくってお米の生産と配給を管理しようとするルールは論外です。おいしいお米が、欲しいと思ったときに、欲しいだけ手に入るルールづくりが豊かな社会のルールです。

 事実、我が国では、お米の生産から、流通から、販売までの管理システムは、そのようになりました。安いことはもちろん魅力的なことですが。高くてもおいしければ買うという人たちもたくさんいるのです。どちらを選ぶかは「お客様の側の自由な意思」です。

 例えば、同じお米を北朝鮮の場合の「お米」とします。北朝鮮の社会において、お米は、現時点では供給力が需要力を下回っているはずです。従って、お米の供給と需要のルールは、貧しい社会のルールが適用されます。米穀通帳のようなものをつくってお米の配給を管理しなければなりません。おいしいお米が、欲しいと思ったときに、欲しいだけ手に入るようにする豊かな社会のルールの適用は難しくなります。事実、北朝鮮では、お米の生産から、流通から、販売までが国によって管理されているはずです。そして価格の決定も貧しい社会のルールで明確に決められているはずです。

 お米のおいしい、まずいは関係なく、供給することが最優先になります。この場合は「お客様の側に自由な意思」がなくなります。「お米の生産や流通や販売を管理する側の人たちに自由な意思」があるようになります。お客様の満足は、お米がおいしい、まずいの問題ではなく、食べられるか、食べられないかの問題です。人間の自由な意思が、きわめて狭められた社会なのです。

 何をしてもいいということが自由なことではないのです。「それはオレの自由だ」という開き直りには「何をしようとオレの勝手だろう」という決め文句が、お約束になってしまいます。

 自由とは、自分の流儀を貫くことではないのです。あくまで、目の前に置かれた色々な選択枝を「選択する自由」があることが大切なのです。Aをやりたいが、Bの制約があるためにAができない。Cをやりたいが、Dの制約があるためにCができない・・・。

 自由の問題は、やりたいことをやりたいようにするという問題ではなく、色々な選択枝がたくさん許されていると言うことが自由なことなのです。従って、「自由」には自由度があるのです。

 60歳の誕生日を迎えた。定年になった。この時点で選択枝の自由度がどれくらいあるのか。引退する自由、給料が今までの60%ぐらいになるが、定年を延長して働ける自由。可能性は低いが、なかにはいったん退職して役員になるか、ならないかの自由もあるはずです。自由とは、このようなものと言えます。選択自由の大原則が実現している状態を人間的であるとする考え方もあります。

 選択することに少しでも制約がある状態を人間的でないという考え方もあります。「人間の自由の意志」ときわめて密接にリンクします。これが豊かな社会か、貧しい社会かを決定する大きな要因となります。「人間の自由な意思がかなえられている社会=豊かな社会」。「人間の自由な意思がかなえられていない社会=貧しい社会」。

 自由という言葉は、本来、このような使い方が為されると、誤解や勘違いが起こりにくい言葉でもあるのです。

先頭集団についていけば良かった時代

 情報化社会においては、欧米諸国はもちろん、発展途上国も含め、世界のすべての国が、一つの塊になって走っている時代なのです。インターネットの普及は「時間と空間」の壁をすべて取り払ってしまったのです。グローバル・ネットワーキングが構築された企業間においては、情報のやりとりは国境を意識することはまったくなくなりました。必要な書類のやりとりはもちろん、プロジェクトの進捗管理も、すべて電子メールやファイル転送システムで瞬時に行われるようになりました。国際電話という概念もなくなりました。IP電話の普及により、同一事業所間、もしくは同一事業所内における通話コストはゼロ円の時代です。テレビ会議システムもひと昔前のシステムとは比較できないほど進化しました。イニシャルコストも、ランニングコストも圧倒的にダウンしました。

 ある企業の研究開発プロジェクトにおいては、研究開発チームを東京と、サンフランシスコと、ロンドンの3カ所に設置しています。東京の開発チームが定時になって終了した時点で、サンフランシスコの開発チームが始業時を迎えて、その進捗を引き継ぎます。サンフランシスコの開発チームが定時になって終了した時点で、ロンドンの開発チームが始業時を迎えて、その進捗を引き継ぎます。そして、ロンドンの開発チームが定時になって終了した時点で、今度は東京の開発チームが始業時を迎えてその進捗を引き継ぐ、というように時差の壁を利用してのシームレスな24時間・365日開発環境を実現しています。当然のように、それぞれの開発チームはプロジェクトのアウトソーシングを、必要なスキルと実績を有する国内外企業に発注しています。

 重化学工業に代表される機械制工場の建設には莫大な資金と人材育成のための時間を必要としますが、情報産業に代表される知識制工場の建設には、莫大な資金を必要としないのです。そもそも工場そのものが不要なのです。必要なコンピュータの設置スペースがあれば、あとはコンピュータを運用するためのオフィススペースを確保すれば済んでしまいます。技術移転は瞬間的に行われます。人材育成も1年単位で育成して供給できるのです。

 いまやインドや中国は、IT産業の先進国になりつつあります。韓国や台湾は、すでにわが国を脅かすライバルであり、同時に、欧米諸国を脅かすライバルです。ゼロから起業して、わずか数年で上場して覇者となりうる可能性があるのがIT産業の特長です。

 国家としての規模で基幹産業の育成を考える必要はまったくないのです。会社単位、個人単位の規模の集合体が、国の基幹産業としての規模なのです。グローバル・ネットワーキングの時代では、「分散と自由と自発性」が三種の神器として鎮座しているのです。

 もはや、「集中と規制と権力」を三種の神器として君臨させていく時代ではなくなっているのです。この事実は、会社経営においてもまったく同じ状況にあると言えます。経営の主体は、事業部別経営から、課別経営、そして社員別経営へ、と変化しつつあります。同時に、成果の主体も法人成果から個人成果へ、と変化しつつあります。「社員別経営システムの導入」の是非が問われているのです。

 かつて、ある有名なマラソン選手がトップの後にぴったりとついて、最後の最後に抜き去って優勝を手にした姿を見て、欧米諸国の人たちは決して賞賛の拍手を送ることはなかったのでした。日本人の多くも心の中では「フェアじゃないな」と思ったに違いないのです。経営者に必要な「胆力」は、このトップを走りきる資質です。優勝のテープを自らが手を挙げて切る栄光を手にすることができる可能性と引き替えに、ときには風よけになり、ときにはペースメーカーとなり、孤独な走りを見せなければならないのです。先頭集団についていけば良かった時代は、すでに終焉を迎えているのです。

税金って何?

 広辞林によれば、税金とは「租税として納めるお金のこと」と定義されています。また、フリー百科事典<Wikipedia>によれば、税金とは租税の俗称であり、公共団体(国や地方公共団体)などが、公共サービスを実施するための原資として、民間(住民や法人など)から徴収する金銭、その他の財貨・サービスである、と定義されています。租税については別の機会で言及しますが、ここでは「租」と「税」は、本来、別物であるということをお話したいと思います。

 「租」は国家としての機能を維持していくために必要な財政を調達するために徴収する財物やサービスです。貨幣で支払うこともあれば、物品(物納)で支払うこともあります。「税」は、その「租」を備蓄した物なのです。従って、本来、「税」は“ストック”を意味し、「租」は“フロー”を意味しているものなのです。会計学的に言えば、“フロー”は一定期間の損益状況を<費用・収益>に区分して損益計算書に記載されるものです。また、“ストック”は特定時点での財産状況を<資産・負債・純資産>に区分して貸借対照表に記載されるものです。

 ですから、我が国の財政施策(税制改革等)も、本来は、企業会計のように複式簿記で管理することを前提とすることは当たり前といえば当たり前のことなのです。しかし現実は、我が国の財政施策(税制改革等)は単式簿記で管理されているため、財政の「今」は把握できても、財政の「過去・現在・未来」の把握が見えにくくなるのです。ま、よくあることなのですが、本来、二つの異なる意味と目的を持っている物を一つに括ってしまうと、物事の本質が隠されてしまうという好例です。

 さて、話を本題に戻します。税金(租税)って何か、一つは国民としての義務です。我が国の憲法30条には「国民は法律の定めるところにより納税の義務を負う」と謳われています。そして税法の基本理念として、<租税正義の原則・公平負担の原則>が憲法第14条「法の下の平等」の元に謳われているのです。

 数年前のことですが、高額納税者番付の1位に健康食品業者の人が挙げられましたが、その人が記者のインタビューに「日本で一番税金を払うことが目標でした」と答えたことが印象的でした。ま、この答えには裏も表が含まれているのですが、我が国における高額納税者(お金持ち)に向けられる嫉妬を回避する方法としては秀逸でした。

 税金は、一歩間違えれば、国民の私有財産に対する侵害としての性質をもっています。そのために税金は、国民の総意の代表である国会が定めた法律によってのみ負担するという、いわゆる「租税法律主義」の原則を確立していなければならないのですが、この原則が、何やらおかしくなっているというのが今日の我が国の現状でもあるのです。何がおかしくなっているのか。租税正義の原則と公平負担の原則が揺らいでいるのです。

 この問題に関しては、私が所属しているTKC全国会の創始者である飯塚毅会長が昭和58年から平成6年までの12年間にわたって「記帳業務の法制化」、「不公平税制の解消」、「脱税犯への罰則強化」等について国会で意見陳述しています。飯塚会長が指摘した意見はきわめて明快で、政治家の租税負担率の低さと不透明さでした。政治資金収支報告書における会計監査人の資格が定義されていない(政治資金規正法第14条)ばかりか、この会計監査人が監査意見書に虚偽を記載しても処罰の対象とならない(政治資金規正法第24条)のです。また、脱税を国家と国民に対する偽証罪として捉えていないばかりか、不実記帳を脱税の未遂犯ともしていないのです。政治家の脱税を暗黙に慫慂(しょうよう)している政治資金規正法を改正することなく、なんの租税正義か、なんの公平負担かと意見陳述しています。

 ちょうどこの時期は第二次臨時行政調査会による内閣総理大臣への最終答申が提出された時期でもあり、飯塚毅会長が、並み居る大蔵官僚を前に「租税正義の原則と公平負担の原則が貫かれていない現状は、国会議員、及び国会議員を補佐すべき大蔵官僚が無能である証拠である」と切り捨てた姿は、今でも、私の脳裏に鮮やかに刻まれています。

強制的に無償で調達する貨幣を租税という

 財政学的に言えば、近代国家は、国王が所有していた領土や領民を放棄させて誕生したものです。「家産国家」から「無産国家」への相転移です。歴史学的に見れば、“近代国家とは、中世末期の封建国家の崩壊後に絶対主義下の近代のヨーロッパに成立した、領土・国民・主権を備えた中央集権的な国家。広域の地域社会に排他的な国家主権を初めて宣言した。日本では幕藩体制の崩壊と明治維新によって樹立された中央集権的な天皇制統一国家である。なお、市民革命を経た市民国家・国民国家、そして現代の大衆国家を含める場合もある(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)”と定義されます。

 簡単に言ってしまえば大衆が目覚めて革命を起こしたわけです。何に目覚めたか。重税と圧政でした。「国王に好きなように搾取されるのはイヤだ」「国王の奴隷として仕えるのはイヤだ」ということに目覚めたのでした。

 目覚めた原因の一つに、グーテンベルクによる印刷機の発明があります。情報が文字で簡単に大量に伝達できるようになったのです。ゲーテが、今まで難解なラテン語で書かれていた書物をはじめて文章を口語文で書いたことにあります。聖書も口語文で易しく書かれるようになりました。その結果、何が起こったか。聖書の場合ですが、神父様が説教してくれた内容と、聖書に書かれていることは違っていることに気づいたのでした。今日と同じように情報がオープン化されたのでした。情報がオープン化されたことにより、もう一つの事実が顕在化したのでした。

 しかし、目覚めたものの、国王の権力に刃向かえるとはとうてい思っていなかった。「仕方がない」でした。あきらめでした。それが、あるときから少しずつ変わったのでした。国王たちが対外戦争に疲弊し始めたこともあるのですが、国王の臣下の反乱も頻繁化しました。今まで絶対だと思っていたものが少しずつ揺らぎ始めたのでした。制度疲労といってもいいでしょう。ある一面では、現代社会とよく似ているのです。

 今まで信じていたものが少しずつ揺らぎ始めたのです。自己崩壊し始めたのです。とにもかくにも「時の権力=国王」と戦って勝利したのです。しかしこのとき、「時の権力=国王」がどうして誕生したか、その過去の経緯をすっかり忘れてしまったことも事実でした。

 はじめは、国王も領民もなかったはずでした。狩猟採取の時代、計画狩猟採取の時代、そして農業社会の時代、と時代が進化していく過程で冨の蓄積が偏在化したのでした。知恵を知識にして冨を蓄積した国王もいました。武力で富を蓄積した国王もいました。武力で冨を蓄積した国王は、はじめは、私たちを守ってくれた英雄だったかもしれなかもしれないのです。知恵を知識にして冨を蓄積した国王は、私たちに余剰生産物をもたらしてくれた画期的な農法を発明した国王だったかもしれないのです。時がすべての事実を飽和させ、そして過飽和させるのです。見えにくくしてしまうのです。

 国王が君臨していた頃は、私たちは、私とのことだけを考えていればよかったのでした。「国王が何とかしてくれる」でした。その国王がいなくなってしまったのでした。とりあえず、土地は自分たちのモノになった。収穫は自分たちのモノになった。モノを売買してもすべて自分たちの利益になった。

 とりあえず「嫉妬していた心」は収まったのでした。しかし、同時に自分たちで何とかしなければならない状況になったのでした。私にプラスして、私たちのことを考えなくてはならなくなったのでした。隣の国が攻めてきたらどうしよう。あの川が氾濫したら今年の収穫は望めなくなってしまう。どうしよう。隣村のAさんがケガをしたらしい。動けないから収穫を手伝ってあげなくてはいけない。どうしよう。「どうしようが山積み」されたのです。

 そして、あたりまえのように、あたりまえの動きが生まれました。「みんなでお金を出し合って、そのお金でみんながよくなるようにしよう」。「これはみんなのためなんだから、文句を言わずに出すようにしようじゃないか」。「お金の出し方は、みんながそれぞれ持っている土地の広さに応じて出そうじゃないか」。「土地を持っていない人は、お金の代わりに働くというのはどうだ」。「そのお金はいったい誰が管理するんだ」。「そのお金の使い方はどうやって決めるんだ」・・・。

 財政学用語で定義すれば、税金、ここでは租税と言い直しますが、「政府が、財・サービスを無償で供給するために、強制的に無償で調達する貨幣を租税という(神野直彦著:財政学)」という問題が、顕在化したのです。

あちら立てれば、こちらが立たず

 私たち人間社会は、国王が所有していた「家産」を私的所有財産に分割し、「土地」、「労働」、「資本」という生産要素に私的所有権を設定して、近代国家へと時代を進化させたのです。ですから、近代国家は「無産国家」なのです。国が国家として運営していくための資本、いわゆる資産を何も持たないのです。いままで国王が所有していた領土や資産を、領民たちで分け合ってしまったのですから無産であることがあたりまえでした。そこで、租税によって強制的に貨幣を調達しなければなかったのです。

 租税の考え方は2つありました。一つは、租税利益説、もう一つは、租税義務説です。租税利益説はわかりやすく、救貧活動の財源として課税しよう、国民の生命と財産を保護するための保険料として課税しよう、と明解です。

 一方、租税義務説は、納税は国民の義務であると、言葉は力強いのですが、納税の根拠が希薄で、どうして納税しなければないのか、と突き詰めいていくと「それは義務なんだから」という堂々巡りになるようです。

 当然のように、強制的に無償で調達される話は、始めは納得していても、そのうち不平や不満が噴出してきます。乱暴な論法ですが「おもしろくない」というひと言です。言葉を言い換えれば、「嫉妬」が生まれたのです。そこで租税の負担が公平か公平でないか、租税の使われ方が妥当か妥当でないか、という話に発展していきます。租税負担配分原則の話です。

 租税負担配分原則は、国が提供する公共サービスの受益に応じて租税を負担することが公正だとする利益原則論と、経済能力に応じて負担することが公正だとする能力原則論に分類できます。どちらの論も一長一短があり、あちら立てれば、こちらが立たずで、試行錯誤しています。詳細は、神野直彦氏の著作「財政学(有斐閣)」を読まれることをお勧めします。

 いずれにせよ、近代国家は無産国家です。租税によって強制的に無償で貨幣を調達しなければ、国家としての運営資金が調達できないわけですから、租税の調達方法は手を変え、品を変え、それこそ山ほど発明されて今日に至っています。当然のように、税金の申告は複雑で難しく、わかりにくくなりました。現在、私たち職業会計人が、独占業務として税務申告代理業を営むことができるのは、税金の申告が複雑でわかりにくくなったためであるという、皮肉な結果でもあるのです。

二つの相反する事柄が、同時多発的に起こっている

 時代の粒度が変わったのです。今まで一つの事柄(事象)と思っていたのが、じつは二つの事柄(事象)が混じり合っていたということが、次々とあきらかになってきているのです。原因は何か。時代を観察する装置が変わったからでした。その結果、今まで観えていなかった事柄(事象)が、観えるようになったのです。その観えるようになった事柄(事象)はいままで観えていなかっただけの話で、もともと存在していた事柄(事象)でした。

 ここが大事なところです。もともとあった事柄(事象)が顕在化しただけなのです。10倍の倍率の顕微鏡で観ていた飲み水を100倍の倍率の顕微鏡で観てみたら、なにやらモゾモゾ動き回っている得体の知れない虫がいた。きれいと思っていた飲み水が、じつはきれいな飲み水ではなかった、というような話です。

 この問題は果てしのない議論になりかねないのです。一つには、100倍の倍率の顕微鏡で観ている人たちと、10倍の倍率の顕微鏡で観ている人たちとの間の争いになります。「そんなことがあるはずがない。事実をよく観てみろ」という、その事実が存在しているか、いないかの議論です。

 もう一つは、同じ100倍の倍率の顕微鏡で観ている人たちとの間の争いです。「もうこの水は、飲み水としては使えない。新しい飲み水を探そう」という、いわば改革派と、「いや、今まで飲み水として何の問題もなく使ってきたのだから、このままでいい」という、いわば守旧派と、「いや、飲み水は、飲み水として使っていこうよ、ただし煮沸するか、どうかして使っていけばいいんじゃないか」という、いわば中間派というように、事実がどんどん枝分かれしていく議論です。

 前者の議論は、宗教裁判にまで発展した歴史があります。この場合は、顕微鏡ではなく望遠鏡でしたが、天体を観ていたガリレオ・ガリレイが、「それでも地球は動いている」と言った天動説と地動説の議論でした。ガリレオは、当時のローマ法王と昵懇だったために火あぶりの刑は免れたが、ジョルダー・ブルーノは、異端の烙印を押されて西暦1600年に火あぶりの刑になりました。

 後者の議論は、時代が新しく変わるたびに、いつもおこる歴史です。「新奇なモノは何で排除する」という生き物としての人間の根源的な問題でもあります。この議論は、改革派と守旧派と中間派に枝分かれして、ときには戦争へと発展した歴史があります。たとえ話はこのくらいにして、「二つの相反する事柄が、同時多発的に起こっている」に戻ります。今、起こっている、二つに相反する事柄とは何か。

 例えば、1「人が余っている、人が足りない」。この場合は人材の価値観が、<人手>から<知識>に変わったことが原因といえます。2「倒産した会社、過去最高の利益を上げた会社」。この場合は、原因は、色々ありますが、過去にこだわった会社、未来にこだわった会社。もしくは、改革できなかった会社、改革できた会社などが原因といえます。3「老後を都会で暮らす人、田舎で暮らす人」。この場合は、ライフスタイルの考え方の違いを原因に挙げておきます。

 このように、時代が大きく変わろうとしているときには、二つの相反する事柄が、同時多発的に起こるのです。時代が飽和状態から過飽和状態へと煮詰まった結果、今まで液体だったモノが、突然、固体に変わってしまった。このような現象を相転移したと言います。見た目はまったく違うが、じつは同じ因果でできているモノである。形態が変わったにすぎない、という割り切り方もあります。

 また、モノゴトの摂理として「陰が窮すれば陽に転じ、陽が窮すれば陰に転じる」というタオの思想もあります。陰を背中にして陽を眺めれば、陰は見えにくくなります。陽を背中にして陰を眺めれば、陽が見えにくくなるのです。陰と陽を左右に置いて、モノゴトには陰と陽があるのだと割り切って、陰と陽と対峙していこう、という摂理でもあります。

 とにかく時代の粒度が変わったのです。時代を観察する装置が変わったのです。新しい価値観が、次々と顕れては消えていく時代です。せめて観測する装置を新しくする。ここから始めるのも、一つの割り切り方の方法です。

経営の目的と、その手段をあいまいにする経営者

 少し難しい話をします。企業の利益の源泉は、その企業の存在理由と一致していなければならない、というお話です。すべての企業組織は、その業種・業態に関係なく、モノを開発する部門と、モノを生産する部門と、モノを営業する部門と、それらの各部門の業務を支援(管理)する部門とで構成されているはずです。そして、すべての企業組織は、業務効率利益と基礎利益に合算される企業利益を生みだすはずです。

 業務効率利益とは、モノを生産する部門、モノを営業する部門、そして各部門の業務を支援(管理)する部門で発生するモノです。基礎利益とは、モノを開発する部門で発生するモノです。また、ここでいうモノとは、企業における有形・無形の成果物のことを意味します。ま、簡単に言ってしまえば「モノ=製品」と言えるのですが、「モノ=経営の目的」と定義するのが最も適切です。たとえば営業部門がなしえる売上利益は、本質的には、その企業の存在をなすものではなく、営業の業務効率アップの結果で生じる業務効率利益(決算期内に生じる実現利益)でしかないのです。

 しかし、今日、多くの企業では、この営業部門こそが企業の利益の源泉であると錯覚し、営業部門への評価が過大評価されがちです。本来、営業部門は、開発部門が技術開発するモノを消費者へ受け渡すための機能であり、消費者の満足のなんたるかを認知することはできても、開発できる部門ではないのです。営業部門に対する過大評価は、ときには消費者の満足を無視し、売上中心主義に走り、結果的に、消費者の不満足を発生させる原因となりえるのです。

 営業部門至上主義は、その企業の存続を是非する問題を発生させる危険性を含んでいるのです。金融・証券企業の不祥事が、そのひとつの実証事例です。「とにかく売ってしまえば、あとは野となれ、山となれ」です。企業における利益の源泉は、業務効率利益ではなく、基礎利益であるということを明確に認識しなければならないのです。

 また、企業の基礎利益は、企業の存在を成すモノであり、その存在を成すモノが、顧客の満足と一致していることが企業発展の基本なのです。突然、難しい話になったので整理してみます。

・企業の利益=業務効率利益+基礎利益(企業の利益の源泉)
・企業の利益の源泉=基礎利益=企業の存在理由企業の存在が実現している=顧客の満足が実現している
・企業が発展している状態=顧客の満足が継続している状態

という図式です。つまり、経営の目的は「企業の存続」であり、その手段が「企業の利益」なのです。しかし、「企業の利益」の中には、業務効率利益、つまり決算期内に達成できた実現利益、つまり売り上げ目標の達成と、基礎利益、つまり、企業の利益の源泉、つまり、お客様の満足が含まれているのです。

 経営の目的と、その手段をあいまいにする経営者は、「お客様の満足」が目的であるにもかかわらず、「売り上げ目標の達成」のためには、「お客様の満足の達成」に目をつぶってしまうのです。手段を目的化してしまうのです。古い例では、三菱自動車のリコール事件や雪印の品質管理事件。最近の例では、キャッシュカードの盗難事件に対する銀行の対応が挙げられます。バブル華やかなりし時代の銀行における押しつけ融資などは、その典型と言えます。