YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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エッセイ

企業における、不測の事態(例えば主力商品の突然の売れゆき不振)に対する危機管理対応について。

『社内意識変革運動の定義が、まず必要になってくる』。

 これからの企業は、全社員に対して危機管理意識の植え付けを社内的な文化として醸成し、その実践のためのマネージメントシステムの確立が不可欠になる。その意味において人事部が、まず変革されなければならない。その最大の変革テーマは人事部における、その任務にある。今日の人事部の人事評価基準は、従業員の90%が、差のない仕事を行う未熟練の労働者であった時代、すなわち第一次世界対戦の頃のそのままである。
当時の労働者に対する基本的な概念は、<労働者は、コスト>であった。
 しかし、今日の企業では、煙突産業においてさえ、10人のうちの3人がこのような概念<労働者は、コスト>にあてはまるにすぎない。残りの70%の人たちは、それぞれまったく異質の、しかも多くの場合、専門的な仕事についている。彼らは、労働者ではない。知識資源である。従って、資源はコストを最小にするためではなく、成果を最大にするために管理されなければならない。今日の労働者といわれている人たちは、かつて労働者といわれてきた人たちとは、明確に異なる。
彼らは、コストといわれてきた労働者ではなく、知識資源と定義されるまったく新しい労働者である。彼らは必然的にコストを伴う存在である。

したがって人事管理システムは、コストを最小にするための人事管理システムではなく、成果を最大にするための、新しい概念による人事システムの上で、管理されなければならない。
工業社会から知識社会への変化は、不連続であるという事実。
 当然、工業社会から知識社会に変わるすべての価値観、意味の定義、概念の変化はドラスティックでなければならない。ある日、突然、変わるものであるという認識が不可欠である。

知識社会における基軸価値観は、与えることを最大目的とする社会である。
 与えることを最大目的とする社会における労働の定義を知識労働とする。知識社会における最大獲得労働形態は、サービス業である。おそらく知識社会における労働者比重は、80%を越える人たちが、何らかのサービス業に従事しているはずである。

サービス業の基本とは何か?
サービス業の基本は、人のために何かをすることを前提としている。
 サービス業において、その職種には基本的に上下の違いはない。自分以外の人をサーブしている状態であることが、サービス業を全うしているという概念である。
サービス業がサービス業であるという定義は、自分以外の人たちのために何かをしているという意識の確立である。

人のために何かをするということは、影響を与えることである。
社会において、自分という存在を確認できる行為をしていることである。
サービスとは文化であると仮定すると、
現在、不明確、もしくは未定義になっている多くの事柄に対して、
きわめて明確な回答を用意することが可能になる。
 文化に対する、本来の評価の方法は決して否定しないことである。また、好き、嫌いという判断さえも用いないことである。唯一可能な評価方法は、その文化を受けいれることができるか、できないかの判断である。したってサービスを行使する側の行動価値判断は、その人が行使しているサービス、つまり文化を受け入れてもらえる領域を模索することである。
 この概念の基本とするところは、サービスの成果は、サービスを行使する側にはなく、常にサービスを受け入れる側にある、とすることにある。

知識社会における労働形態の80%は、知識労働である。
知識社会における労働者の80%は、サービス業に従事しているという。
よって、知識社会における最大産業は、知識産業である。
サービス業の概念は、サービスを実施する側の文化の提供ビジネスである。文化は、本来、個人に属するもので、その個人の集合体であるマジョリティオピニオンを、社会的な認知のもとに、文化といっているにすぎない。
文化をなしている原始ユニットは、個である。
その意味で文化とは、個人が生きてきたすべての経験値であり、評価値であり、価値観である。
 したがって、サービスとは、その人の文化である。当然のことであるが、その人の文化を否定することはできない。そのサービスであり、文化であるものの評価・査定方法は、それを受けいれることができるか、できないかだけのことである。

工業社会における基軸価値観は、獲得することを最大目的とする社会である。
獲得することを最大目的とする社会における労働の定義を非知識労働とする。
 自分のために何かをする、自分のことをまず初めに考えようとする人たちが最大公約数を占める社会を工業社会という。その社会においては、所有の概念がきわめて顕著で、しかも獲得し続けることが連続するために、その社会における価値観は、その社会に決して蓄積されることなく消費されていく。そして、その消費していくものは、目に見えるモノ、生産物である。
 その意味において、この社会におけるモノ資源は、時間とともに、消費とともに減少していく。この概念を有限資源という。
社会の概念を企業組織とすると、もう一つの別の次元の見え方が可能になる。

人間は本来、<自分のためにのみ何かをすること>をプログラミングされていないのではないかということを仮定すると、働くこととは何かという問題点は、きわめて明確になってくる。
 人間は、本来、一人では存在できない動物である。コミュニケーションを基本とする社会を構築し、その中で団体行動する動物である。したがって、人間は、絶えず存在していることを自分自身で確認していかなければならない。自分の存在を他人に認識させる手段は、唯一、他人に対して影響力を与えることである。他人に対して何かを成し遂げているという認識である。
 他人に対して何かを成し遂げているという認識を持たなくなった瞬間、人間は働くことをやめ、社会との接触を断つようになる。仕事をしている意識は、自分のためにではなく、他人のために何かをしていることを感じ、その結果、存在理由を見いだし、さらに生きていく力を手にいれるのである。
 存在理由の重さの量は、自信の量と等価であると仮定することができる。

知識社会における基軸価値観は、与えることを最大目的とする社会である。
与えることを最大目的とする社会における労働の定義を知識労働とする。
人のために何かをしてあげたいとする人たちが最大公約数を占める社会を知識社会という。その社会においては、所有の概念はきわめて希薄で、しかも与え続けることが連続するために、その社会における価値観は、その社会に蓄積され続ける。その蓄積されているものを知識という。
その意味において、この社会における知識資源は、永久に増え続ける。
この概念を無限資源という。
知識社会における最大労働形態をサービス産業と定義するならば、知識社会は<与えることを最大目的とする>とする社会であるとする定義と一致する。そして、知識社会における、さまざまな言葉の再定義をしなければならない。
つまり意味の管理である。

◎仕事の定義:知識社会においては、仕事はサービスすることであり、人のために何かをし続けることである。
◎人間の定義:人間は、本来、自分のためにのみ行動を起こすことができる、とするプログラミングは組まれていない。なぜならば、人間社会は一人の存在を初めから認めていないからである。人間社会の原始単位は二人であり、もう一人のために何かをする、その結果において得られる存在の確立、満足感、自信などのリアクションを、行動のエネルギーとしている動物である。人のために何かをすることを放棄、もしくは休止した瞬間に、人は働くという行為を停止し、他人からの関心、自分自身の存在感の確認をしなくなる。行動のエネルギーを手にできなくなるのであるから、自然に、浮浪者・ホームレスへの道を成り行きとして歩むようになる。働くことにおいて最終的に手にする満足は、自分自身の存在の確立である、他人からの評価である。したがって、働くことの定義は、人のために何かをすることとなる。

事実、知識社会における労働者の80%以上は、何らかのサービス業に従事するようになる。サービスと名前が付く仕事は、すべて知識労働であると定義することができる。その理由は、サービスと名前が付く仕事において、その仕事の評価を定めるための明確なメジャーは存在しない。存在するのは、そのサービスを受けた顧客の側の満足、不満足でしかない。

◎知的仕事:与えることを最大目的とする仕事=結果責任が問われる仕事=知識社会における主要産業=サービスと名前が付く仕事
◎非知的仕事:獲得することを最大目的とする仕事=プロセス責任が問われる仕事=工業社会における主要産業=決められた時間内の決められた仕事

ならば、知識社会における労働はサービスと再定義することが可能になる。
なぜならばサービスの定義は、与えることに他ならないからである。

以上