YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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エッセイ

今みたいな時代を、カオスとか、複雑系とか言うらしい。

 カオスというのは、わけがわからない混沌としたこと。複雑系というのは、ひと筋縄ではいかないややこしいこと。簡単に説明するならば二言三言で終わってしまうものではあるが、実はこの言葉が飛び交うようになると、世も末とかいって大変なことになるらしい。まさに我が国の現状そのものを示唆している言葉でもあるらしい。つまりカオスというのはあちらを立てればこちらが立たない。こちらを立てればあちらが立たない。だからどちらも立てられない。何とかしなければならないという気持ちはあるにはある。

 しかし、何か一つでも行動をおこすとすべての要因が一斉に変化し始めて収拾がつかなくなってしまう。心配が先駈けしてしまう。だから、ああでもないこうでもないと現状を打破することに最大の努力を払っているフリを見せる。複雑系というのもカオスとよく似たもの(実は同じなんですが)で、がんじがらめに凝り固まってしまった状態において、何か一つでも解きほぐそうとすると、その何か一つが思いもよらぬ方向にジャンプしてしまう。収拾がつかなくなってしまう。心配が先駈けしてしまう。心配が先駈けするというのは、クヨクヨ、ウジウジしているだけということの別名でもある。

 こうなると、困ったことになる。今までと違ったことはできにくくなる。もっと困るのは、例えば、今まで何の疑問もはさまずにやってきた商習慣が、突然、悪いことだと摘発されてしまうようになるものだから、今まであたりまえのようにやってききたことさえ、いちいちお伺いを立てなくてはできなくなってしまう。お伺いを立てられた方は、お伺いを立てられたこと事態が今までとは違った新しいことだから、お伺いの内容を聞く耳を持たなくなってしまう。お伺いを立てられた心配だけが先駈けしてしまう。『誰が責任をとるのや』と。すると、見事に体が動かなくなる。別名、《頭でっかち》状態とも言うのだが。まだ何もしていないのに、やった後の結果を勝手に想像して決めつけてしまう。挙げ句の果てには、先のことはわからんと言いながら、今のことさえ何もやらなくなる。本当なら、『先のことはわからんから、ちょこっと様子見でやってみようか』が、あたりまえの日本の姿だったのが、逆どころか、皆目わけがわからなくなっている。好むと好まざるに関わらず、難儀な時代になってしまったのである。

 打開策はあるのだろうか。無論、それはある。カオスとか、複雑系というは、ある日突然、そうなってしまったものではなく、ある一定の時間が経過したあかつきにそうなってしまったものである。それも、ある目的に向かって秩序だてられた意志の元での、単純な行いの反復の結果、そうなったものである。少なくとも、今日の混沌としたカオス的な日本の始まりは、1945年8月15日が、その始まりであったと言えるだろう。そこに存在したものは戦争によってすべてが破壊されことで《無》になってしまった《無》であった。初めから何もなかった《無》ではない。当然のように、日本には、日本という国を再建しようという日本人一人一人の強い意志として、天皇を中心とする秩序が、当時は凛としてあった。失ったものを再び手にしようとする単純な願いがあった。その時点では、まさに、時代は、今日のカオス的とか、複雑系とか言われている状態の対極とも言える、コスモス的であり単純系であった。

 そしておよそ半世紀が経過した。まさか半世紀前の、その当時、浜松の小さなオートバイ屋が、あるいは、東京の品川で細々とトランジスタラジオを作っていた東京通信工業が、今日、世界のHONDAとして、SONYとして存在しているなんて、いったい誰が想像しえただろうか。しかし、そのHONDAにせよ、SONYにせよ、今日のグローバルマーケットにおいて、創業当時の秩序だてられた意志の元で、独創的なものをつくろうとする、単純明快な目的に向かっての経営方針で対応できるのだろうか。答えはあきらかにNoである。

 例えばHONDAにおいては、速い車の開発には環境問題と省資源の問題が複雑に絡まり、そのための経営判断は、あちら立てればこちら立たずの、まさにカオスの縁とも極みとも言えるだろう。SONYにおいては、昨年の暮れに死去された井深大氏が創業時に唱えた、『真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設』は、いままさに、任天堂の二番煎じであるプレイステーションが、その理想工場から生産されている。独創的な製品開発の志はどこに発散してしまったのだろうか。

 物事の流れには、必ず始まりがあって、途中経過があって、終わりがあって、という自然系の理(ことわり)が決められている。そして同時に、物事の始まりにおいては、始まりの位置は単純明快に決めることができても、物事の終わりにおいては、ここが終わり、と単純明快に終わりの位置を決めることができない人間系の理(ことわり)が存在するのである。物事がめいっぱいに進化すると、必ず飽和し始めるのである。そして、さらにその飽和が進むと、今度は過飽和になり、その瞬間、何か異物が混入されるか、何かに揺さぶられるかすると物事は一挙に崩壊するか、まったく新しい形態を伴って再生するかのいずれかの道を選択せざるを得なくなるのである。カオスとか、複雑系とか言われていることは、そのようなことを難しく述べているに過ぎないのである。

 栄えるものは、いずれ一つの小さなほころびから滅びる運命にあるのは世の常であり。満ちた月は、いずれ一つの小さなかけらから欠け始めるのも世の常なのである。問題は一人一人の個々の力の再認識にある。HONDAにせよ、SONYにせよ、創業当時は、社員一人一人の力の出しようが目に見えるカタチで存在していたのである。私が力を出せば、全体の力を増幅させるという自他共に認め合った力である。しかし、その力も、社員が百人、千人、一万人と増えるにつれ感じられなくなってしまったのである。そのうち、ウァーンという個を特定するのが難しい全体の力が支配するようになってしまった。この状態がカオスであり複雑系なのである。

 今、私たちは心を澄ます時期なのである。一人一人の個々の力に心を澄ます時期なのである。今の複雑にしてカオス的な状態ができあがってしまった始まりは、あきらかに一人一人の個々の力の発揮が始まりであった。そして、今の、この状態を終わらせるのも、さらなる形態にジャンプさせるのも間違いなく一人一人の個々の力の発揮なのである。当然のことではあるが、一人一人の個々の力は、初めのうちは全体の力にかき消されてしまうのが道理である。しかし、一人一人があきらめずに力を出し続ければ、やがてある日、突然、すべてが不連続に変化し始めるのである。それがいつなのかは残念ながら予測はできないが、訪れることは必然である。

 カオスにまつわるいい話がある。あるところに重さ1トンの釣り鐘があった。その釣り鐘をか弱い女性の小指で動かすことができるかと賭をした人がいたそうである。結果は、137人のか弱い女性が小指で1回ずつ押し続け、まさに138人目の女性が押した瞬間に、重さ1トンの釣り鐘は動き始めたのである。また、これもよく知られた話であるが、昔、ある王様に仕えた軍師が手柄を立てたその褒美として要求したことが、1日目に1粒、2日目に2粒、3日目に4粒と、碁盤の目の数だけの日数分のお米を倍々にしてくださいということだった。王様は、そんな僅かな褒美でよいのかと言われ、気軽に応じたらしい。結果は、わずか一粒のお米が、やがて王様が所有する国中のお米を集めても手の届かない量のお米を意味していた。

 カオスとは、複雑系とは、じつは、一人一人の一つ一つの個々の力を認識せざるを得ない法則でもある。例えば選挙のときに、今までは、私が投票する1票の力なんて何の影響も与えないというのが事実と思われていた。しかし、今は、すべてが過飽和になっている状態なのである。たったの1票が、我が国の政治のすべてをドラスティックに変える引き金になる時代なのである。今夜、たまたま入ったコンビニで、いつもは一つしか買わないおにぎりを二つ買ったことが、300万トンあったと思われていた備蓄用の古米をすべて消費してしまう結果の引き金になるかもしれない。

 カオスとか、複雑系とかいう言葉が一人歩きし始めた時代は、『どうせ私一人が頑張ったって、世の中、どう変わるわけじゃないし』という時代ではない。『私一人が信じ続けて、頑張り通せば、世の中がガラリと変わるチャンスがある』という時代なのである。モノは試しである。物事というのはすべからく、やってみたってやらなくたって結果は半々である。だったらやってみて損はない。カオスとはそんなことを言うのである。複雑系とは、そのような状態を言うのである。幸運は、準備された心に訪れるのである。

以上