YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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コラム

貧しい社会のルールから、豊かな社会のルールへ

 価値観が多様化したという事実からみれば、この問題は複雑な話になります。お金があるから豊か、無いから貧しいという簡単な問題ではなくなります。「人間の自由な意思」の問題なのです。

 一つの定義として、社会の供給力が、社会の需要力を上回っている状態を豊かな社会と定義します。社会が供給するモノは何でも構いません。仮定すればいいのです。その仮定したモノの供給力と需要力の関係が、「豊かな社会」か「貧しい社会」を判断する、一つの基準値となりえるのです。

 例えば、わが国の場合の「お米」とします。日本の社会において、お米は、現時点では供給力が需要力を上回っています。従って、お米の供給と需要のルールは、豊かな社会のルールが適用されます。米穀通帳をつくってお米の生産と配給を管理しようとするルールは論外です。おいしいお米が、欲しいと思ったときに、欲しいだけ手に入るルールづくりが豊かな社会のルールです。

 事実、我が国では、お米の生産から、流通から、販売までの管理システムは、そのようになりました。安いことはもちろん魅力的なことですが。高くてもおいしければ買うという人たちもたくさんいるのです。どちらを選ぶかは「お客様の側の自由な意思」です。

 例えば、同じお米を北朝鮮の場合の「お米」とします。北朝鮮の社会において、お米は、現時点では供給力が需要力を下回っているはずです。従って、お米の供給と需要のルールは、貧しい社会のルールが適用されます。米穀通帳のようなものをつくってお米の配給を管理しなければなりません。おいしいお米が、欲しいと思ったときに、欲しいだけ手に入るようにする豊かな社会のルールの適用は難しくなります。事実、北朝鮮では、お米の生産から、流通から、販売までが国によって管理されているはずです。そして価格の決定も貧しい社会のルールで明確に決められているはずです。

 お米のおいしい、まずいは関係なく、供給することが最優先になります。この場合は「お客様の側に自由な意思」がなくなります。「お米の生産や流通や販売を管理する側の人たちに自由な意思」があるようになります。お客様の満足は、お米がおいしい、まずいの問題ではなく、食べられるか、食べられないかの問題です。人間の自由な意思が、きわめて狭められた社会なのです。

 何をしてもいいということが自由なことではないのです。「それはオレの自由だ」という開き直りには「何をしようとオレの勝手だろう」という決め文句が、お約束になってしまいます。

 自由とは、自分の流儀を貫くことではないのです。あくまで、目の前に置かれた色々な選択枝を「選択する自由」があることが大切なのです。Aをやりたいが、Bの制約があるためにAができない。Cをやりたいが、Dの制約があるためにCができない・・・。

 自由の問題は、やりたいことをやりたいようにするという問題ではなく、色々な選択枝がたくさん許されていると言うことが自由なことなのです。従って、「自由」には自由度があるのです。

 60歳の誕生日を迎えた。定年になった。この時点で選択枝の自由度がどれくらいあるのか。引退する自由、給料が今までの60%ぐらいになるが、定年を延長して働ける自由。可能性は低いが、なかにはいったん退職して役員になるか、ならないかの自由もあるはずです。自由とは、このようなものと言えます。選択自由の大原則が実現している状態を人間的であるとする考え方もあります。

 選択することに少しでも制約がある状態を人間的でないという考え方もあります。「人間の自由の意志」ときわめて密接にリンクします。これが豊かな社会か、貧しい社会かを決定する大きな要因となります。「人間の自由な意思がかなえられている社会=豊かな社会」。「人間の自由な意思がかなえられていない社会=貧しい社会」。

 自由という言葉は、本来、このような使い方が為されると、誤解や勘違いが起こりにくい言葉でもあるのです。