YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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コラム

税金って何?

 広辞林によれば、税金とは「租税として納めるお金のこと」と定義されています。また、フリー百科事典<Wikipedia>によれば、税金とは租税の俗称であり、公共団体(国や地方公共団体)などが、公共サービスを実施するための原資として、民間(住民や法人など)から徴収する金銭、その他の財貨・サービスである、と定義されています。租税については別の機会で言及しますが、ここでは「租」と「税」は、本来、別物であるということをお話したいと思います。

 「租」は国家としての機能を維持していくために必要な財政を調達するために徴収する財物やサービスです。貨幣で支払うこともあれば、物品(物納)で支払うこともあります。「税」は、その「租」を備蓄した物なのです。従って、本来、「税」は“ストック”を意味し、「租」は“フロー”を意味しているものなのです。会計学的に言えば、“フロー”は一定期間の損益状況を<費用・収益>に区分して損益計算書に記載されるものです。また、“ストック”は特定時点での財産状況を<資産・負債・純資産>に区分して貸借対照表に記載されるものです。

 ですから、我が国の財政施策(税制改革等)も、本来は、企業会計のように複式簿記で管理することを前提とすることは当たり前といえば当たり前のことなのです。しかし現実は、我が国の財政施策(税制改革等)は単式簿記で管理されているため、財政の「今」は把握できても、財政の「過去・現在・未来」の把握が見えにくくなるのです。ま、よくあることなのですが、本来、二つの異なる意味と目的を持っている物を一つに括ってしまうと、物事の本質が隠されてしまうという好例です。

 さて、話を本題に戻します。税金(租税)って何か、一つは国民としての義務です。我が国の憲法30条には「国民は法律の定めるところにより納税の義務を負う」と謳われています。そして税法の基本理念として、<租税正義の原則・公平負担の原則>が憲法第14条「法の下の平等」の元に謳われているのです。

 数年前のことですが、高額納税者番付の1位に健康食品業者の人が挙げられましたが、その人が記者のインタビューに「日本で一番税金を払うことが目標でした」と答えたことが印象的でした。ま、この答えには裏も表が含まれているのですが、我が国における高額納税者(お金持ち)に向けられる嫉妬を回避する方法としては秀逸でした。

 税金は、一歩間違えれば、国民の私有財産に対する侵害としての性質をもっています。そのために税金は、国民の総意の代表である国会が定めた法律によってのみ負担するという、いわゆる「租税法律主義」の原則を確立していなければならないのですが、この原則が、何やらおかしくなっているというのが今日の我が国の現状でもあるのです。何がおかしくなっているのか。租税正義の原則と公平負担の原則が揺らいでいるのです。

 この問題に関しては、私が所属しているTKC全国会の創始者である飯塚毅会長が昭和58年から平成6年までの12年間にわたって「記帳業務の法制化」、「不公平税制の解消」、「脱税犯への罰則強化」等について国会で意見陳述しています。飯塚会長が指摘した意見はきわめて明快で、政治家の租税負担率の低さと不透明さでした。政治資金収支報告書における会計監査人の資格が定義されていない(政治資金規正法第14条)ばかりか、この会計監査人が監査意見書に虚偽を記載しても処罰の対象とならない(政治資金規正法第24条)のです。また、脱税を国家と国民に対する偽証罪として捉えていないばかりか、不実記帳を脱税の未遂犯ともしていないのです。政治家の脱税を暗黙に慫慂(しょうよう)している政治資金規正法を改正することなく、なんの租税正義か、なんの公平負担かと意見陳述しています。

 ちょうどこの時期は第二次臨時行政調査会による内閣総理大臣への最終答申が提出された時期でもあり、飯塚毅会長が、並み居る大蔵官僚を前に「租税正義の原則と公平負担の原則が貫かれていない現状は、国会議員、及び国会議員を補佐すべき大蔵官僚が無能である証拠である」と切り捨てた姿は、今でも、私の脳裏に鮮やかに刻まれています。