YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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コラム

先行きが見えなくなり“不安虫”が社会に蔓延した

 先行きが見えないときには、亀のように首を引っ込めて様子見しようという方法があります。今までは、この方法で上手くやっていけました。時代の変化が1年2年というように足し算でやって来たからです。しかし今日、私たち人間社会は、幸か不幸か、2倍、4倍、8倍、16倍・・・、とベキ乗で変化する社会に生きているのです。ドッグ・イヤーの速さで変化している社会に生きているのです。

 かつて武田信玄が亡くなる寸前に、嫡子であった勝頼と、その重臣たちに、「ワシが死んだことを3年間伏せておくようにせよ、その間は、決して動くな」と遺言を残したことは有名な逸話です。たまたま、武田信玄の時代は群雄割拠の戦国時代で、時代そのものが激しく動いていました。武田信玄を一番恐れていた織田信長は、そのときの時代の動きを読んでいました。いつもの時代なら、亀のように首を引っ込めて嵐が通り過ぎるのをじっと待っていれば、嵐が去った後、そこには見慣れた風景が拡がっていたのでしたが、引っ込めた首を出してみたら、そこにはまったく違った風景が拡がっているような時代でした。事実、武田家は、信玄亡き後の2年後、天正3年5月21日(1975年)、長篠の戦いで、武田勝頼軍は、織田信長・徳川家康連合軍に破れてしまいました。

 当時、織田信長が率いていた軍隊は、春の田植えの時期、秋の収穫の時期になったら、戦争をいったんやめなくてはならないサムライ集団ではなかったのでした。お金で雇用した傭兵集団でした。織田軍の家臣には、報酬として領土を与えられることなく禄米をはんでいた家臣が多くいました。名誉とか、お家のためにとかという信念が希薄だったために、兵士一人一人の戦う能力は決して高くはなかったのですが、数を頼みとする戦法を多用し、鉄砲という飛び道具を効果的に使いこなす軍隊だったのです。「飛び道具を使うとは卑怯なり」という、従来の常識にまったくとらわれない新しい傭兵集団でした。

 堤義明氏が託された西武王国でも同じような現象が起こりました。西武王国の創始者である堤康二郎氏も、言葉こそ違え「ワシが死んだ後、10年間は何もするな」と遺言し、何もせずに、忠実に、遺言を守る可能性が一番高かった堤義明氏に、西武王国を託したようです。結果は言うまでもなく、その10年の間に、社会の風景が変わりつつあることを感じ取ることができなかったのでした。過飽和状態により、時代が相転移したのです。土地は必ず値上がりするという神話はもろくも崩れ去り、権力で情報の流出を押さえ込むことは不可能な時代になっていたのでした。引っ込めた首を出して景色を覗いたら、そこにはまったく違った風景が拡がっていたのでした。

 ドッグ・イヤーの時代は従来の1年が、1/7年で動く速さです。1年で7年分のことがやれる時代でもあるのです。試行錯誤を1年に7回試みても、その試みに要する人件費は1年分で済むはずです。もちろん、試行錯誤に要する設備費用、開発費用の類の支出は別です。しかし、時代はデフレの時代です。人件費が最も高コストの時代なのです。

 今から13年前、あのソフトバンクが1994年にジフの展示会部門を約1億2700万ドルで買収。続けて、翌年の1995年には、インターフェースグループの展示会部門を8億ドルで買収しました。当時、わが国のマスコミをはじめ、ほとんどの企業経営者たちは、冷ややかな目をもって様子見をしたのでした。「そのうちこける」と。

 しかし、情報ネットワーク技術関連の展示会では世界一の規模をもつ「インターロップ」、そして世界最大のコンピュータ関連見本市「コムデックス」を傘下に収めたことにより、世界の展示会事業の約70%のシェアを手にしたのでした。そしてその後、ソフトバンクと同じ事業戦略を踏襲する企業が、わが国に次々と誕生しました。同時多発化したのです。

 先行きが見えなくなり“不安”という虫が社会に蔓延したとき、どちらの側の動きをするか、亀のように首を引っ込めて様子見するか。それとも、みんなが首を引っ込めて動かないうちに、首を出して、時代をよく見つめて先周りしてしまうのか。どちらの場合も、必ず上手くいくという保証はありません。往々にして成功の確率は1000に3つです。しかし首を引っ込めて不安だ、不安だ、と悩み続けて、やったことと言えば、悩んだことだけだった、というよりは、首を出して動き回った方がマシな時代のようです。