YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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エッセイ

仕事ができる人。できない人。

 仕事ができる人と、できない人とでは、一体、どこに違いがあるのだろうか?一つには、自分に対しての自信である。つまり、自分がやっていることに対して確固たる自信が在れば、まわりの目や思惑を気にすることなく、ゴーイング・マイウェイを貫くことが可能になるのである。ゴーイング・マイウェイが貫けて、その結果がある程度の成果を挙げることができれば、他人の評価は、あの人は仕事ができると尾ひれが付いて、本人の自覚と意識と本音とは無関係に評価が一人歩きするようになる。そして、その評価が定まらないうちに、運よく、次のそこそこの評価を獲得することができれば、ま、当分は、“あいつは仕事ができる”という肩書きを手にすることは、まま可能である。そして、この繰り返しがある程度、回り出すと、ひとりでに自信が芽生えるものである。芽生えた自信は、肥料を怠ることなく、水をまきすぎることなく、時節の変動を見誤ることなく、自ら大切に育てるようにすれば、やがて、その自信はたくましく成長し、花を咲かせ、実を結び、種となって、次の自信を芽生えさせる“自信の種”として蓄積できるようになるのである。確固たる自信として凛として際だつようになるのである。一つの問題を残してではあるが・・・。

 さて、その一つの問題であるが、自信の一つの源であるゴーイング・マイウェイは、ときとして独断専行、傲慢身勝手、唯我独尊、トラブルメーカという評価と表裏一体の言葉として存在しがちであるというのも事実である。有り体に言えば、ゴーイング・トュゲザーがないという、きわめて日本的な言い回し方である。この日本的な言い回し方に対抗する方策がビジョンを明確にするということである。仕事ができる人は、自分に対して自信があるのと同時に、明確なビジョンを打ち出すことができるのである。明確なビジョンを打ち出すことができる人は、ゴーイング・マイウェイをやりながら、ゴーイングトュゲザーを実践できる人なのである。自分のまわりの人たちを上手に巻き込んで、あたかもお祭り的にワイワイ言いながら仕事をやり遂げてしまう力でもある。

 では、このビジョンとは、一体、何なんだろうか。答えは簡単なところにある。例えば、あるビジョンの描き方を仕事に置き換えて紐解いてみよう。ビジョンとは、実現すべき仕事のサクセスストーリーを明確にイメージし、そのサクセスストーリーのカタチをきわめて具体的に構築し、その在るべき姿から出発点までを逆算して、なおかつ、実際の行動を、出発点から構築すべきサクセスストーリーへと、一歩一歩着実に歩む始めることである。確信して行動を起こすことである。言い回しが難しくなったようであるが、簡単に言えば、自分がその仕事を行うにあたって、成功したカタチを自分以外の人たちにも納得してもらえるだけの熱意を発散し続けることができるか、できないかだけのことである。発散し続けるということは、ビジョンを説明し続けることでもある。こうしてこうしてこうすれば、ああなってああなる。ああなってああならなければ、こうしてこうすればいい。自分のビジョンを、自分以外の人たちに理解して協賛してもらえるまでには、説明を十分にしなければならないし、具体的な手順もあきらかにしなければならない。ときには、損益計算を最悪の場合と最善の場合の両方で試算してみなければならない。それこそ何回も何回も、同じことを丹念に、粘り強く、繰り返し繰り返し積み重ねていくことが必要である。

 ビジョンを描くことは、実現すべきサクセスストーリーのシミュレーションを、無意識のうちに自分自身に対して、そして自分以外のビジネスパートナーたる人たちに対して、十分すぎるほど行うことでもある。仕事ができる人は、このことを意識して行っている人でもあり、無意識のうちに行っている人でもある。そして、さらに重要なことは。仕事ができる人は、自信を持って、ビジョンを具体的に描いて、まわりの人たちを説得し、納得させて、実現したサクセスストーリーのプロセスを綿密に記述して、秘密のファイルとして、自信を失いかけたとき、ビジョンが壊れそうになったとき、人知れず、あたかもバイブルのように確認し続けているのである。このようなケースの時は、あの時このようにしてに乗り切ることができた。あのときうまくいったことは、あのときにあのようにしたからだ、というように、自分がやったことは子細漏らさず網羅しているのである。網羅することを頭に記憶しておくか、おかないか。または、紙に書き留めておくか、おかないかは、人それぞれで、それぞれの主義主張の在りようであり、ここでは不問としたい。

 しかし、一つだけははっきりしていることがある。前述の“網羅”を頭に記憶している、仕事ができる人は、後継者を育てることが至難な技となることは間違いない。自分の頭を割って覗かせるわけにはいかないのである。従って、自分の後継者を自ら厳選し、その厳選した人物をいわば特別扱いして集中的に教えこむしかない。この手法は、得てして血縁関係を基本として存在し、後継者選定の目利きが違ったら取り返しがつかないうえに、2代目までは何とかなるが、3代目となるとうまくいったという話をとんと聞いたことがない。さて、“網羅”を紙に書き留めておくという、仕事ができる人はどうだろうか。この場合の後継者を育てる手法はシンプルである。後継者を事前に選定する必要がないのである。すべての人に後継者たる資格を公開するのである。

 “自信の種”を手にする方法を公開するのである。ビジョンの描き方を公開するのである。すべての人に自分が行ってきた手法を公開し、その手法をもっともうまくやりこなしたと認められる人を後継者とするのである。さて、今回も、筆がすべりすぎて、紙面も残り少なくなってきたようだ。ここにきて、仕事ができる人とは、頭が良い悪いとは無関係なんですかという素朴な疑問が飛んできそうである。その答えは明確である。頭が良い悪いは、確かに仕事ができるできないの尺度に大いに関係することは間違いがない。但し、その尺度を確かめるすべが定かではない。例えばリトマス試験紙みたいなものがあって、赤色に変わったら頭が良い、青色に変わったら頭が悪いとかいうように割り切れる話ではない。

 割り切れない話は、そこそこにしておくのが疲れないことでもある。人間は誰でも自信が確固たるもととして凛とすれば、仕事ができるようになるのである。人間は誰でも、ビジョンを描きそのビジョンを実現するための毎日をコツコツやり続けることができれば、仕事ができるようになるのである。決して両親から授かった我が身の頭の中身を、夢おろそかに扱うものではない。仕事ができる人は、自分が仕事ができるとか、できないとかいった迷いごとに頭を惑わせてはない。使ってはいない。私はこれがやりたい、と力強く宣言することができる人。その人を仕事ができる人というのである。いや、これからは、そのような人たちを“仕事ができる人”と呼ぶようにしよう、と提案したいものである。

以上