YOSHIDA ATSUO ACCOUNTING OFFICE

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コラム

知識は利用してはじめて顕在化する。

 発想の転換を大胆にしてみようと思います。人間が一生かかって獲得し得るすべての知識の量を、誰もが均等に、この世に生まれいでた時点で既に与えられていると仮定します。但し、この仮定には、一つだけ前提条件があります。この与えられているとする知識は、非常にヘソ曲がりであって、<すべての知識は与えられている>ということを、本人が自ら気づき、そのうえで、その知識を使うことによって、はじめて顕在化するという性質を持っていると仮定するのです。すべての知識を与えられているといっても、その知識を使うことなく、しまいこんだりすると顕在化しないとする前提条件です。

 もちろん、この仮説には反論があることは承知の上です。そんなことはない、人間にとって、知識とは<ゼロから獲得し得た総量>にほかならない。獲得し得る知識の総量を、人間であるなら誰もが初めから与えられているなんて、そんなバカなことは有り得ない、とする反論です。知識は、他人に負けないくらいの努力をして初めて勝ちとるものであり、人間は努力なしでは、知識を手にすることは不可能である。従って、真面目にコツコツと努力しなければならない、ときには犠牲をもいとわないという決心が必要である、という反論です。

 しかし、冒頭に述べたように、この項では発想の転換を大胆にしてみようと思います。人間が平均して80年以上の人生を生きていくうえで不可欠な、さまざまな知識は、そのすべてを生まれたときから誰もが同じだけ与えられているとします。ゼロから獲得していくとする知識を<所有した知識>とし、すべての知識は生まれながらにして既に与えられているが、利用しなければ顕在化しないという知識を<利用した知識>として、下記に図解してみます。

 つまり、この図でもわかるように、生まれながらにして与えられた知識を利用することによって顕在化させた知識も、努力して勝ちとった知識も、知識の量に違いはありません。知識は持っているだけでは、何の価値もありません。知識は使ってはじめて価値を生み出すものです。また、知識は、その知識を必要とする人が存在しなければ何の価値もありません。知識は必要とされてはじめて価値を生み出すものです。

 問題は、どちらの方がより多くの知識を手にできるか、ということです。知識は、ゼロから獲得していくものであるとする従来の常識による方法と、この世に生まれいでた時点ですべての知識を与えられてはいるが、利用しなければ顕在化しないとする仮説による方法と、いったい、どちらの方がより多くの知識を手にできるのでしょうか。知識はゼロから獲得していくという従来の手法は、初めはゼロなのだから自分以外のどこから探してこなくてはならない、獲得しなくてはならない。知識は有限であるという意識が芽生えます。知識を獲得する、所有するための『手段』を常に考え続けるという意識が潜在的に存在します。

 一方、知識は利用しなければ顕在化しないという仮説の手法は、知識は無限にあるという意識が芽生えます。但し、この知識は利用しなければ顕在化しないから、知識を使う、利用するための『目的』を常に考え続ける意識が潜在的に存在します。果たして、人間が知識を手にしていく経緯として、どちらの手法の方が、より多くの知識を手にできるのだろうか。

 前者の、知識は有限であると信じている人たちの間では“知識を有限だから、限りあるものだから、みんなで分かち合っていくと、そのうちに枯渇するのではないか”という猜疑心が芽生え始めます。限りあるものを分かち合うことは、初めの頃は、たくさんあるから少しぐらい減っても意に介さないでのですが、ある量を境に不安と不信が一気に押し寄せてきます。所有欲は際限がないのです。苦労して手に入れたものだからとして、知識は、囲い込まれて閉ざされてしまいがちになります。所有できた人と所有できなかった人が偏在し、往々にして争いごとに発展していく可能性が大きくなります。

 後者の、知識は無限であると信じている人たちの間では知識は無限にあるが、利用しなければ顕在化しないという前提があるために、“みんなで利用し合うことを考えよう”とし始めます。無限にあるものを独占しようとする人間はいません。但し、上手に利用できた人と、上手に利用できなかった人が偏在することはあります。しかしこの偏在は、上手に利用する方法を習得すればすぐに解消できる偏在です。後者の知識は、囲い込まれて閉ざされてしまうことはなく、むしろオープンなカタチで共有化すれば、より多くの知識を顕在化できるはずだ、と気づくことができるようになる可能性が大きくなっていきます。